みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

愛車はヤマハのシグナスX。 原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。
風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。
※記事は基本的に毎日18時に更新です。

村人から慕われた尼僧の最期 長坂の坊主殺しの伝説(中井町)

JR二宮駅前の通りを北上し、剣道71号線を秦野中井インターチェンジ方面に向かって進んでいきます。

とちゅう、左わきにそれると飯綱神社の前を通る細い峠道へと差し掛かっていきます。


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飯綱神社の前には、「一本松」と書かれた比較的新しい道しるべがありますので、それに沿ってさらに急な山道を登っていきます。

ここまで来れば、すれ違う車や人もほとんどないような寂しい山の中の道となります。

 

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飯綱神社の前からちょうど500メートルほど進んだところに、5叉路がありますがここが一本松と呼ばれる昔の街道辻です。

この一本松は今でこそこうした寂しい道でありますが、かつては大山街道や金目みちをつなぐの重要なポイントでした。

金目観音と飯泉観音を結ぶ坂東観音巡りの巡礼街道としても機能したようで、今でも簡素なパウチ仕上げの説明が掲げられていました。

 

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ここには、大きな一本松をシンボルとした茶店が開かれて多くの旅人が足を休めたところだそうで、その路傍には今なおいくつかの道しるべが残されています。


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さて、この一本松辻より北側に伸びてゆく細い農道がありますが、これは現在でも地元の方々から「長坂」と呼びならわされている古道で、舗装もほとんどされていないいかにも古道らしい趣を残す道です。


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この長坂はその名の通り、大変長いながらもなだらかな坂で眼前には大山を見据えた風光明媚な道であり、かつて大山を目指すたくさんの人たちが旅姿に身を固めて通り過ぎたところなのかと思うと感慨深いものがあります。

 

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さて、この長坂も中盤に差し掛かってくると、うっそうとした木々に覆われたところに出ます。

このあたりで道はいくつかに分岐していますが、そのうち何本かは木々に埋もれて失われてしまったようです。

このあたりには、聞くも悲しき坊主殺し、尼殺しの哀話が残されているそうです。

 

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先達氏のサイトによれば、かつてここにも一本松に残されていたようなパウチ作りの説明文が残されていたようですが、その時点で数年も前のことであり、現在ではその説明文を見つけることはできませんでしたが、近くで農作業をしていた方からお話をおかがったところ、このあたりが「坊主殺し」の伝説が残る場所で間違いない、という事でした。

 

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むかし、今とは違って交通といったら歩きか牛馬が主だったころには、この道は大山参詣のみならず近在の住民たちにとって主要な交通路でした。

そのころ、現在の下井ノ口自治会館(中井町井ノ口356で現在もお墓などが多数残る)が小さなお寺であったころに、ひとりの尼僧が堂守をしながら暮らしていたそうです。

 

この尼僧は大変に誠実で温厚な性格とあり里の人たちからたいそう親しまれ、いつも多くのお布施が集まり、食べ物をお供えしていたそうです。

そうするうちに、この尼僧のところには多くの金銭が納められているのではないかというヨコシマな考えを持つものが現れ始めます。

 

ある日、尼僧が一日の説法を終えてこの坂を通りかかった際に、何者かに襲われて首を絞殺された上に、身に着けていた金品がすべて持ち去られてしまうという事がありました。

 

下井ノ口の人たちは、このような亡くなり方をしてしまった尼僧を不憫に思い、たいそう嘆き悲しんだ挙句にその地に亡骸を埋め、ねんごろに供養したのだそうです。

 

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その翌年、尼僧の高徳を慕った村人たちは一念発起してなけなしの金を出し合い、尼僧の葬られた場所に石の墓標を建てました。

 

それ以来、この場所は長きにわたり「坊主殺しの坂」と呼ばれたために、次第に気味悪がる人も増え、あたりが暗くなるころには人通りはすっかり途絶えてしまうほどだったといいます。

 

この時に建立された墓石は立派なもので、重さは二十貫、現在の貫目で約75キロもあったそうですが、惜しいかな関東大震災の際にどこかへ埋没してしまい、いまだにその姿を見つけることが出来ていないのだそうです。

 

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今となっては時代も流れ、尼僧の無念を慰める墓石も後世の人が残した説明文も失われてしまいましたが、現在でもこのあたりに住む方々の中では細々と語り継がれているのは間違いないようです。

 

いま、人気の少ない農道にひとり立って降り積もった落ち葉を踏みしめながらこの道を歩くとき、かつてここで命を奪われた哀れな尼僧の悲しみと、その尼僧を慕って集まった村人たちの嗚咽がいまによみがえるようで、ここにも生きることへの無情というものを思い出すのです。