相模湖の東側にある相模湖プレジャーフォレストの正門前の交差点を南にいきますと、すぐに八幡神社の鳥居の前から西側へとカーブして奥牧野相模湖線という山奥の道路に入っていきます。
相模湖プレジャーフォレストの正門前の交差点から5キロ少々進んでいくと、右手に立派な門構えの邸宅が見えてきます。
これは、この物語の主人公となる義士「土平治」の子孫(佐藤家)が今も暮らすお宅だそうです。
この門のあるところの道路向かいには、少し開けた土地があって現在は倉庫のようになっている古い建物があります。
現在では単なる物置小屋のようになっていますが、かつては人が住んでいた事をうかがわせるような造りであったのが印象的です。
その脇には、だんだんと落ち葉に埋もれるように残されている小さな石碑があり、正面には「土平治騒動二百周年記念植樹」の文字があります。
こここそが、江戸期の大飢饉のとき、里人の窮状を憂えて立ち上がり正義の露と散った義士、土平治の生家だったところなのです。
今から時をさかのぼる事230年あまり、天明7年(1787年)のことです。
時代的には江戸幕府の第11代 将軍、徳川家斉公の治世にあたり、時代劇ファンに人気の高い「鬼の平蔵」こと火付盗賊改役、長谷川宣以(はせがわ のぶため)が活躍していたころでもあります。
このころの日本は西日本で米が不作となり米の価格が高騰し、その機に乗じた東北地方の藩が備蓄米を西日本に売りさばいて財源の足しとしました。
しかし、運悪くその後は東北地方が不作となったために東北地方の食料は瞬く間に底をつき、結果数十万人と推定される餓死者が発生した天明の大飢饉の悪夢が冷めやらない頃だったといわれています。
この惨禍は相模国をはじめとした全国にも伝わり、また全国的に発生した米をはじめとした食料品の高騰は庶民の不満を爆発させ、全国各地で打ちこわしが発生したのです。
江戸時代は、それまでもたびたび百姓一揆が起きてはいましたが、それまでは領主への訴えを主たる目的とするので、盗みや略奪は決して行わないという暗黙の了解があったといいます。
しかし天明の打ちこわしからは、幕府や領主の解決力のなさに対する失望と、今日食わねば明日の命がないという逼迫した食糧事情から金品や食糧の強奪が横行するようになり、これにより幕府は大きな衝撃を受けたのです。
これに対する幕府や領主の対応は、略奪の首謀者や扇動者を徹底的に取り締まるという強硬なもので、これがまた里人たちの不満に火をつける悪循環となったようです。
さて、そんなさなか、ここ相模国でも打ちこわしがありました。
天明7年(1787年)12月の津久井郡上川尻村の久保宿の打ちこわしに端を発し、翌年の正月6日の愛甲郡田代村、半原村の打ちこわしまでの4度にわたって打ちこわしが発生し、酒造屋などが襲われました。
これは、飢饉を逆手にとって不正を働き暴利をむさぼった酒造屋や商人たちに対する恨みが爆発したもので、それを指揮したひとりが津久井郡牧野村篠原組の組頭、茂兵衛の子である専蔵でした。
このころから、専蔵は「平に民を治める」という意味で「土平治」と名乗るようになったとされていることから、専蔵にかかわる一連の騒動を「土平治騒動」とよんでいます。
土平治は巨万の富をむさぼり人々を苦しめる酒造屋を打ち潰して天下万民を救わんと、大山石尊大権現に起請文をあげ天明7年(1787年)12月の津久井郡日連村勝瀬の酒造屋「惣兵衛」の打ちこわしに始まり、翌正月4日の青山村・中野村川和・鳥屋(とや)村の五軒の酒造屋の打ちこわし、さらに正月6日には田代村・半原村の酒造屋を打ちこわしました。
その勢力は大きく、1万人前後の人々が参加したとされています。
なぜ酒造屋が打ちこわしにあうか、というと米を使うからです。
当時は米を大量に使う酒造は飢饉の時にふさわしくない、として幕府や領主がご禁制とするのが常でしたが、それを逆手に懇意にしている仕入れ元より米を買い付けて高値で転売したり、隠れて酒を造って高値で売ったりする酒造屋が後を絶たず、それらが米相場をいっそう高騰させる要因にもなっていたという事です。
土平治、伴蔵こと重郎兵衛(津久井郡青野原村)、利左衛門(同村)の首謀者3人は幕府の討手であった青山播摩守と奥秋越後守に書簡をおくり酒造屋の悪業を述べるとともに、飢民の救済と御慈悲を嘆願したもののあえなく死罪とされてしまいます。
しかし、この一件を契機として幕府からの買占めと酒造隠し造り禁止令を出さしめ、寛政の改革では物価政策に大きな影響を与えたとされています。
その後、土平治は生家のあったところを見下ろす高台の上に葬られたということです。
近くの丘の上にははるかに石垣が見え、その上に墓石が並んでいるのが見えますが、この場所は現在は立ち入り禁止の看板が立っていることから、下の公道から手を合わさせて頂きました。
とても広い青空と、豊かな山並みがどこまでもつづくところで、かつて大飢饉に苦しむ多くの人々が手に竹やりを持ち鍬や鎌を持って、「おたから」うなる酒造家になだれこんだことが嘘のように思えてしまうほど、のどかで静かなところでした。
いま、この土平治の生家あととされるところの近くには、それよりももっと前に作られた道祖神や石仏がひっそりと並んでいます。
この道祖神たちは、このような時代の変遷をずっと見守ってきたのでしょう。
土平治の墓石の代わりに、この道祖神に向かって静かに手を合わせていると、およそ230年前に起きた騒動の鬨の声と、命を賭した人々の断末魔の叫びが聞こえてくるかのようで、感慨もひとしおなのです。