川崎駅より東側へ1キロほど行くと、広大な敷地に芝生が鮮やかに映える川崎競馬場があります。
この川崎競馬場は、板垣退助を中心とした京浜競馬倶楽部によって、明治39年(1906年)に開設されて競馬が開催されたのが始まりとされています。
さて、この川崎競馬場は、わずか2年後の明治41年(1908年)に「賭け事はケシカラン」とする明治政府によって、実質上の「馬券禁止法」が出されたことにより、経営は頓挫してしまいます。
そのため競馬場は空き地となり、その空き地には「富士瓦斯紡績」(富士紡績株式会社)の工場が誘致され、1915年に操業を開始しました。
当時の地図には、広大な敷地に広々とした池を備えた、「富士紡績工場」が記載されているのが見て取れます。
この工場は 昭和14年(1939年)に、現在の東芝である「東京電気」に譲渡され、大東亜戦争の空襲で被災するまで、川崎地区における主要な工場の一つでもありました。
当時の習わしとして、この工場における労働力の多くには、地方から出稼ぎにきた女工たちも多く携わっていましたが、辛くきびしい重労働に耐える女工たちの哀話とともに、池のほとりに生えていた「おいでおいで松」という松の古木にまつわる逸話が残されていました。
「神奈川ふるさと風土図」川崎編によれば、 夜中に池の畔を通ると、池の中から 通行人に向かって「おいで、おいで」 と呼ぶ声が聞こえたといいます。
その時、風があるわけでもないのに松の木が大きく揺れて、まるで手招きでもしているかのようだったそうです。
これは、ここにあった池に身を投じた女工たちが、生きている人を冥界へと誘う呼び声だったのではないかとささやかれたそうです。
また、川崎こども風土記には昭和4年生まれ、川崎区大師町の土居さんという方の昔語りが載っていました。
それによれば、この池は朝鮮池と呼ばれていたそうです。
朝鮮池のほとりには大きな松の古木があり、地元の人たちはみな「おいでおいで松」と呼んで忌み嫌っていたそうです。
この朝鮮池には多くの魚が住んでいましたが、一人で魚を取りに行くと、この松に「おいでおいで」と招き寄せられて、まるで夢遊病にでもかかってしまったかのように池にはまって死んでしまうと言われていたそうです。
川崎という町は、言わずもがなの工業地帯でした。
戦時中などは、朝鮮半島から多くの人が好むと好まざるとに関わらずこの川崎に渡ってきて根を下ろしましたが、ここ不二紡績の工場にも朝鮮人女工たちがいたのかもしれません。
そして、その子孫たちはいまなお桜本や池上町界隈にコリアタウンを形成し、住み続けています。
いま、時代はすっかり流れて富士紡績の工場も東芝の工場も姿を消し、戦後はふたたび競馬場が建設されて池も埋め立てられ、松の木も切られてしまって、レースの日ともなれば多くの観客たちの歓声がこだまするところとなっています。
いま、競馬場の中を見渡して歩くたびに、かつてここで汗水を垂らしながら必死に働き、そして捨てられていった女工たちの哀れな慟哭が聞こえてくるかのようです。
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