富士山の北側、山梨県富士吉田市上吉田にある「北口本宮冨士浅間神社」(きたぐちほんぐうふじせんげんじんじゃ)は、 富士登山における吉田口登山道の起点にでもあり、「富士山域」の一部として世界文化遺産に登録されている神社です。
その御祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)と天孫彦火瓊瓊杵命(てんそんひこほのににぎのみこと)の夫婦神と、父である大山祇神(おおやまづみのかみ)であるとされています。
世界文化遺産というだけあってその雰囲気は素晴らしいものです。
森林に囲まれた静かな神社のなかで玉砂利を踏みしめて歩くザクザクという音、そして小鳥たちのさえずりばかりがこだまする神々しさは他に類を見るものではなく、ただ訪れるだけで心が洗われるところであると言えると思います。
この神社は由緒も古く、景行天皇40年(西暦110年)という昔まで遡ります。
日本武尊(ヤマトタケル)が東方遠征で箱根足柄から甲斐国へと向かうときにここを通り、鳥居を立てて「富士の山は北の方角より拝せよと」勅されたのが始まりとされています。
さて、この広大な神社の説明は長くなるのでこのくらいにして(興味ある方は調べてください)、この神社の片隅には目立たない石が安置されています。
一見するとただの庭石のようにも見えますが、きちんと注連縄が張られていることから、これも御神体のようなものとして大切にされているようです。
これは、「角行の立行石」(かくぎょうのたちぎょういし)といって、富士山信仰の歴史的な資産であるという、たいへん貴重なものだそうです。
時代は豊臣の時代から徳川の時代へと移り変わろうとしている慶長15年(1610年)の冬のことです。
富士山を信仰する集団「富士講」の開祖であった角行東覚(当時69歳)が、吉田の地を訪れて、富士山を遥拝しつつ、 酷寒の中にもかかわらず裸の身となり、30日間にわたって石の上に爪立ちするという、現代人のみうけんにはちょっと考えられないような荒行を成し遂げたということです。
全身より血を噴きつつ修行を続けていたものの、里人の勧めというか懇願というかで行を止めた、とも伝えられています。
この角行東覚という人物は、本名を藤原武邦といいました。
天文10年(1541年)1月に長崎で生れ、戦国時代の最中に天下の泰平と国土の安穏、衆生の救済を願って難行苦業の道に入ったとされています。
永禄2年(1559年)、わずか18歳で故郷を出ると、岩手県盤井郡の「脫骨の窟」において37日の行をなし、のち神のお告げをうけて富士の「人穴」にこもって、わずか約14センチ四方の材木に1000日ものあいだ爪立ちをするという(再び、現代人のみうけんには想像もできません、というかちょっとマユツバ・・・)荒行を成し遂げると、みごと解脱し角行と称した人物と言われています。
この修行を終えた角行は、正保3年(1646年)に当時としては超長齢の106歳にて大往生します。
生まれてから亡くなるまでの間、不眠の修行が18800日、立行3000日、断食300日、造字360字、富士登頂128回など、なかなかな経歴の持ち主なのだそうです。
それから450年近くたった現在でも、この角行が修行に使った石は大切に護持され、こうして多くの人たちの目に留まっています。
この日も、神社の境内には御利益を求める人がたくさん集まっていました。
いくら時が流れようとも、科学万能の時代と呼ばれても、日本人の潜在的な信仰心はなかなか変わらないようです。
余談ですが、境内にあった大木。
根元のぷっくり感が可愛くて、ついつい写真におさめてしまいました。
いま、人々が集まる賑やかな境内で、角行の立行石に触れていると、かつてこの石の上で30日にわたって爪先立ちをしたという老人の姿が思い起こされるようです。
これもなかなか面白い、現代に伝わる民話であると思います。
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