京浜急行追浜駅から金沢方面に向かって、およそ100mほど行き歩道橋を渡ると、右側に石の大鳥居が見える。
ここが旧村社であり珍しい名前の雷神社である。
名称の読み方には諸説あり、「雷神社」と書いて「いかづちじんじゃ」と読むのが正式とは言われており、神社前の信号も「いかづちじんじゃまえ」に訂正されているものの、地元では「かみなりじんじゃ」と広く呼び親しまれている。
神奈川県神社庁のサイトでも「かみなり」「いかづち」両方とも併記されている。
また、「新編相模国風土記稿」では「雷電神社」と記載されていたりもする。
石段を登ると左手には戦没者の慰霊碑や、その左には旧海軍の招魂社である浜空神社が残されており、いかにも軍都横須賀にふさわしいたたずまいである。
この浜空神社は、もとは追浜の海軍航空隊の守護神であった鳥船神社であるとされ、平成20年(2008年)に雷神社に遷座されたのだという言い伝えが残されている。
さらに、高い石の段を登ると朱塗りの美しい社殿が、裏山の緑を背景に素晴らしい神域を醸し出しているのである。
これだけでも行く価値はあるし、こちらの御朱印は竜神から稲妻が走る、珍しいデザインである。
雷神社の旧地は追浜駅前の商店街を右に入ったところに築島と呼ばれるところがある。
いま、そこには昭和6年に建立した「雷神社故址」という石碑と、黒こげになったビャクシンの老木が、立ち枯れたまま立っていて俄かに往時を偲ぶことができる。
昔、この辺り一帯には人家もなく、入江の中の小島であったために橋を渡らなければ来ることはできなかった。社伝によれば古くは元は雷神社は天神社と呼ばれ、現在の横浜市金沢区六浦東1丁目から追浜本町2丁目付近にあった「天神ヶ崎」地域に祀られていたと言われている。
もともと血を不浄としてみる神道の話なので日本全国どこにでもある話だが、この里でも習わしとして女は不浄のものとされ、神事や清浄なものにはかかわってはならないしきたりがあった。
天正年間には毎月の身体の不浄の時には若い娘など自分の家にいることすらはばかられて、遠く離れたこの築島まで渡ってきては「月小屋」という共同の建物にこもって一定の日限を過ごさなければならなかった。
そしてはやく穢れが去るように、小さな祠の前で祈る娘たちで常に賑わっていたということである。
ある蒸し暑い日、鷹山の方角からみるみるうちに立ち込める黒雲は空を覆い、すさまじい雷鳴と雷光がとどろき、このビャクシンの木に落雷すると、ビャクシンの木はたちまち砕け散り八つ裂きとなって激しく燃え、近くにいた娘たちは神仏の加護を願いながらも、これで死ぬかもしれないと思ったことだろう。
しかし、神仏の加護が効いたのか娘たちは誰一人としてけがをする事もなく、お互いに無事を喜び合ったという事である。
のちにこれは村人の耳に入り、これは神の加護によってビャクシンの木が身代わりになったのだろうという話になり、以降、この神社をこの地に移して名も雷神社と改めて村の鎮守としたのである。
この話が領主であった朝倉能登守の耳に入り、お布施米2石を賜ったという事である。
いま、雷神社から少し離れて訪れる人もほとんどいない細い路地を入り、淋しく立ち枯れたビャクシンの老木の前に立って見上げれば、この地で命を救われたという遠い昔の村娘たちの表情が浮かんでくるようで、うたた懐古の情に駆られるのである。