東京23区の南端のほうに、洗足池というところがあります。
東京とはいえこのあたりはすっかり下町の風情が残るところで、また少し歩けば高級そうなお屋敷が並ぶ地域もあったりします。
そんな洗足池の住宅街にあるのが、その名も洗足池という大きな「ため池」です。
もともと、この洗足池は百姓たちが作物を洗うために使っていた湧水地がいくつもあり、その水が流れ込んでいたといいます。
特に主要な4ヶ所の湧水のうち、大田区北千束の清水窪弁財天の涌水は今でもとうとうと湧き出しており、水路を通じて池に流れ込んでいるということです。
このあたりの「千束」(せんぞく)という地名は平安末期の古文書にも登場する実に古い地名でしたが、その由来については諸説あるものの決まり手となっている由来はまだ分かってないそうです。
中には、身延山久遠寺から常陸へと旅を続けていた日蓮上人が池のほとりで休息したさいに足を洗ったという言い伝えも生まれています。
さて、今回この池に来たのは、池の端に祀られている小さな弁財天の社に参拝しようと思ったからです。
この弁財天は厳島神社、通称は洗足池辨財天とも呼ばれており、「福徳財宝授けの神」、「音楽、舞踊、芸能上達の神」、「水神、水路、海上安全の神」、「交通安全の神」、「商売繁盛の神、特に水商売繁盛の神」として、今なお多くの方々の信仰を受けているようです。
このお社の御祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)で、個人的に信仰している横浜市の「菊名池弁財天」と同じ神様です。
この厳島神社が祀られた日がいつなのかは、定かではありません。
はるか古来より洗足池の守護神として、この池の北端の小島に祀られていたそうです。
しかし、月日が経つにつれて徐々に池の底に没してしまい、永らく人々から忘れられていたそうです。
昭和の初めになると、多くの人々の夢枕に辨財天が現れるようになりました。
どうか、池に沈んだままのお社を引き上げてほしいというのです。
この事は村の中でも無視できない話となって、多くの人々から浄財が集まるとともに、力自慢の若者たちや細工が得意な職人たちがあつまりました。
昭和9年7月、いよいよもって「洗足風致協会」の手によって築島が再建されるや、今のような立派な社殿も作られ、戦争の惨禍をもくぐり抜けて、いまなお多くの参拝者が訪れるということです。
このように、多くの人々の夢枕に神仏が立つ、という話はよく耳にします。
夢というものは、自らがすっかり意識しなくとも潜在的に不安に思っていることや心配事、忘れ去ったようであって実は記憶の片隅に残っている記憶がストーリーをもって脳内に再生されるものである、ときいたことがあります。
きっと、当時の多くの人々の思いの片隅にも、どこからしら弁天様を慕う気持ち、早く再建せねばならないという焦りがあったのかもしれません。
それが夢という無形の現象となって人々の心を揺り動かし、力と団結をもって有形の社を築いた、ということでしょうか。
いま、この洗足池弁財天の前にたち、遠くまでひろがる洗足池の静かな水面を眺めるとき、かつてここに集っては土を運んで築島を築き、材木を組んでは社殿を作り上げた、村の人々の一途な信仰心が目に浮かんでくるかのようで感無量の気持ちにさせられます。
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