天気が良い晩夏の昼下がり。
神奈川県は伊勢原の街を、愛車のシグナスXで駆け抜けていました。
ここはかつて、岡崎城というお城があったあたり。
ここから少し離れた平塚市に、岡崎城主であった岡崎義実の息子が真田与一義忠を名乗って独立して建てた真田城があったとされています。
現在、その真田城の跡地は萬種山 天徳寺という寺になっていますが、現在もなお真田与一ゆかりの寺として、訪れる人が途切れることはありません。
ここに出てくる真田与一義忠という人は、平家物語によれば1180年に源頼朝が大敗を喫した「石橋山の戦い」で戦死しています。
このあと城を継いだのは、子の岡崎盛実でしたが1213年に和田家と北条家が刃を交えた和田合戦で亡くなり、そのまま廃城となってしまったそうです。
しばらく荒れ果てていた真田城でしたが、ふたたび戦国時代にその名を見ることができます。
扇谷上杉氏の家臣であり、小田原城城主を務めていた大森藤頼が北条早雲によって小田原城を奪われて逃避行の末に真田城へ立て籠った時のことです。
しかし、所詮は廃城であったためにろくな防御もなく、あっという間に攻め込まれてしまい大森藤頼は自刃した、と言い伝えられているのです。
現在、この城跡があったとされている天徳寺は、実際に訪れてみると高台にあり、さらに北側には大根川が天然の堀をなしており、なるほど天然の要害と呼ぶにふさわしいところだったようです。
お寺の中に、山車をしまっておくお堂がありました。
この倉庫は「与一堂」と呼ばれており、中には真田与一をたたえる大神輿がしまわれており、見るからに絢爛豪華なものでした。
この大神輿は重さ1トンを越えるもので、8月23日の「真田尊大祭」には100人をこえる担ぎ手たちによって盛大に担がれるのだそうです。
この神輿には、真田与一だけではなく、その家臣の陶山文三、腰巻文六の名がはいった提灯も掲げられています。
これは、石橋山の合戦において闇世の中で討死にした与一とその従者をあわれみ、せめて神輿くらいは明るくてらしてやろうと考えられたもので、威勢のいい甚句と合わせて真田地区を練り歩くのだそうです。
せっかくのご縁と思い、本堂前で読経させていただいてから庫裡を訪問して御朱印を頂戴してきました。
書き置きのものでしたが、このようなご縁をいただいた事にありがたさを感じます。
境内には、物言わずたたずむ石仏たちが、どこか物憂げにたたずんでいました。
観音像や地蔵菩薩像が多いのですが、一つ一つ見てみると真田与一や大森藤頼の時代からずっとあとの平和な時代、江戸時代のものでした。
この地に天下泰平が訪れてから数百年がたち、ふたたび日本は戦乱に巻き込まれていくわけですが、このような時代の流れをどのような思いで眺めていた事でしょう。
いま、ひぐらしの鳴き声がかすかに響き渡る境内には哀愁ばかりがただよい、苔むした石仏の表情はどこか物憂げで寂しそうで、かつてこの地において繰り広げられてきた数々の悲しき哀話を今の時代にも語り継ごうと話しかけてきているような気にさせられるのです。
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