第一京浜の道路、多摩川を渡る手前にある川崎競馬場前の交差点を東に進みます。
この道は川崎大師につながる通称「大師みち」で、ほどなく進んでいくと天台宗寺院の薬王山 無量院 醫王寺の伽藍が見えてきます。
このお寺の歴史は古く、桓武天皇の御代である延暦24年(805年)に、春光坊法印祐長という僧が開山したといわれています。
戦国時代には小田原北条家の筆頭家老であった、間宮豊前守信盛の祈願所ともなっていたといわれており、准秩父三十四札所観音霊場の22番、多摩七薬師霊場の6番目の札所ともなっています。
江戸時代に編纂された一大歴史資料、「新編武蔵国風土記稿」の「川崎宿堤外往還」の項では、
医王寺
久根崎町の内東南の耕地にあり。薬王山無量院と号す。天台宗荏原郡品川宿常行寺の末寺なり。開山を春光坊法印祐長とて延暦二十四年二月廿二日寂せし人なりと云。然れば宗祖傳教大師にまのあたり従ひし人なるにや。此後法燈たへず間宮豊前守信盛当所に住せし頃祈願所と定めしと云、今本堂七間に六間、本尊薬師木の坐像にて長一尺八寸許、脇士は立像にて長一尺八寸許、其余十二将神等の像あり。
鐘楼。門を入て右にあり、二間四方鐘径二尺八寸許高さ五尺程享保十年十月と彫る。
と紹介されています。
さて、このお寺は何度か訪問しましたが、参詣者を拒絶されているのか門の柵が固く閉じられており、境内を参詣する事は出来ませんでしたが、聞くにも不思議な「蟹塚」の伝説が残されているので、民話集から抜粋したいと思います。
むかし、医王寺では朝と夕にきまって梵鐘が撞かれていました。
その音は大変大きかったためにシラサギなどの鳥が怖がって寄りつかなかったために、境内の池に棲む魚や蟹は鳥に怯えることもなく、安心して暮らすことが出来ました。
ある日、近隣の家から火の手が上がり、風に吹かれるようにしてみるみる燃え広がって、火の勢いは医王寺にも迫ってきます。
山門は焼け落ち、庫裏を焼き、やがて鐘楼に燃え移ろうかというときに、池からわらわらと出てきた何百もの蟹が鐘楼に上り始めると、一斉に口から泡を吹きだして火の手を食い止めようとしたのです。
蟹は数えきれないほどいましたが、燃え盛る炎にかなうはずもなく、甲羅を焼かれ足を焦がされて、バタバタと死んでいきましたが、次から次へと蟹が昇ってくるので鐘楼だけが焼け残ったそうです。
その鐘楼の周りには山のような蟹の死骸が積み重なっていましたが、寺の住職は命がけで鐘楼を守ったという蟹の徳を後世に伝えようと、塚を築いてねんごろに供養しました。
その蟹の子孫は今でも医王寺の池に棲んでいるそうですが、その蟹たちは火であぶられたかのように背中が赤くなっているのだそうです。
現在でも、境内には蟹の徳をたたえる蟹の像などがあるそうです。
この不思議な蟹の伝説は今までいろんな民話を見てきた中でも特に珍しく、ぜひともこの目で確かめたかったのですが、参詣ができない雰囲気なのが残念です。
いつか、お正月などには開門されるかもしれませんので、いつかはまた医王寺を訪れて、不思議な蟹の伝説に思いを馳せてみたいと思いつつ、原付のエンジンをふかして医王寺を後にしたのでした。
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