国道1号線の押切橋交差点を折れて山側にしばらく進んでいくと、曹洞宗の古刹である萬年山・広済寺という寺がある。
この広済寺は、寺伝によると元は箱根宿の宿場上町にあって慈善事業を施していたが、江戸時代の初期に大山道がひらけた際にここに移った、とある。
この広済寺が箱根にあった頃の明応4年(1495年)のこと、のちの北条早雲である伊勢新九郎長氏は、大森藤頼が支配していた小田原城を奪取して自らの拠点にすえると、伊勢原市岡崎城の三浦道寸義同と対峙するようになった。
そのため押切、上町、沼城、鷹巣、荒影、床城などに城砦を築き、永正9年8月に岡崎城を陥落せしむるまで実に17年に渡る月日を戦った。
そのころ、この広済寺は北条方について絶大なる尽力をしたので、北条早雲亡き後にその位牌を納めたのであると言われている。
元来、このあたりを鐘藪というが、これには由来がある。
この寺には見上げるばかりの大きな鐘楼があったが、その鐘楼は大山道に近い大門の入り口にあったとされる。いまその跡地は住宅地や墓地となり見る影もないが、この寺が響かせる鐘の音たるや、中村郷一帯に広く響き渡り、その仏徳を示して親しまれていたが、ある大雨と暴風雨が吹き荒れる晩に鐘楼は倒壊して前にあった溜池の中に鐘が深く沈んでしまい、なぜか引き上げようとしてもかなわずに、とうとうそのままになってしまったのである。
それからというものの、夕闇が迫る頃や、小雨がしのつく薄寒い日など、寂しい天候の日になると決まって溜池の中から鐘の音が聞こえ、その物悲しく響く鐘の音は、鐘の亡霊であると言い伝えられて、人ひとり近寄るものは無くなってしまった。
それからというもの次第に草木が茂って藪となった後でも、変わらず鐘の音は聞こえ続けたのでこの辺りを「鐘藪」と呼ぶようになったのだという。
いま、この人気のない境内の中で、ひとりたたずんで斜陽に照らされる六地蔵に手を合わせるとき、かつてこのあたりで聞こえた悲しげな鐘の音と、それを避けるようにして足早に通り過ぎて行った村人たちの姿がにわかに蘇るようで、ここにも民話の面白さというものをしみじみと感じるのである。