相模原市南区の下磯部というところは駅からも離れた閑静な住宅地であるが、磯部のバス折り返し場の脇にぽつんと稲荷社が佇んでいるのが見え、この稲荷社は地元では「もんや稲荷」と呼ばれて大切にされている。
江戸時代、この辺りには元々「もんや」という豪商があった。
数多くの作男を雇っては八王子方面に毎日のように荷駄を出して商いをしていたとされ、昼の食事の合図には釣鐘をついて知らせるという豪勢さであり、しかも、その鐘には多くの黄金が溶かされて混ぜられていたので音色も大変よく、遠くまでよく聞こえたのだという。
この「もんや」が豪商になったわけは、あくまでも言い伝えであるが、当時の主人が伊勢神宮にお参りして鐘をつき、「われ一代のみ」と商売繁盛の祈願をしたところ、たちまちのうちに商売が繁盛し、まるで飛ぶ鳥を落とすかのような成長ぶりだったという。
なにしろ、不夜城と歌われた江戸・吉原の花魁を総揚げ(すべて呼びつける事)にし、吉原の大門を打たせる事(吉原全体を貸し切る事)が2回に及んだというから、大したものである。
さて、この辺りに住む馬子で、弥吾という男がいた。
弥吾が、もんやの用事で米を馬に積んで運んでいた、ある年の1月15日の事である。
甲州街道の八王子あたりに差し掛かったが、当時ではこの辺りは昼でも追いはぎが出るような淋しいところであった。
弥吾は足早に通り過ぎようとするが、その先にはボロボロの衣服をまとった乞食のような老人が座り込んでおり、旅の途中ですっかり疲れたというので、馬の背に老人を乗せてやったのである。
老人はそのまま磯部のもんやの前まで乗ってきたが、「たいへん助かった。実はわしは貧乏神なのだが、今度はこの家の小豆粥に入るつもりだ」と言うが早いか、煙のように消えてしまったのである。
すっかり驚いた弥吾はほうほうの体で帰ったが、しばらくは誰にも打ち明けられずにいたという。
その翌日、もんやは朝から餅つきでにぎわっていた。蒸籠からはもうもうと湯気を昇らせ、16台の臼をズラリと並べて、揃いの法被にねじり鉢巻きの若衆たちが、掛け声も力強く真っ白な餅を搗き上げていくのだ。
そのとき大きな地響きがなり、土間の中の井戸囲いが崩れると、あまりの不吉さに皆一様に餅つきの手を止めたと言われている。
その日を境に、もんやの商いはどんどん傾き、嘘のように跡形もなくつぶれてしまった。
さしもの豪商も「われ一代」の願通りになってしまったのである。
それからこの地は田畑になったが、ここを耕す人にはロクな事が起きないため、稲荷をまねいて慰めたのが「もんや稲荷であるとされているのである。
ちなみに、もんや自慢の鐘は、もんやで必要がなくなってから、もんやから近くの能徳寺に寄進されたと言われている。
朝夕のお勤めのほかにも、相模川の水が増えて氾濫の恐れがあることを村人に知らせる時に鳴らされたり、日照り続きの際には雨乞いのためにこの鐘を川まで持っていき祈祷したのだという。
ことに、朝夕の鐘の音は清らかに響き、人心に安寧をもたらし仏道を広めていたが、惜しむべくかな大東亜戦争の際の昭和17年12月、軍部より下された金属供出令により、仏道を広めた鐘は兵器へと姿を変えたという事である。
その後、明治100年の記念として再建が発願され、檀家信徒の手厚い援助をうけて再建したのが、現在かかっている鐘であるという。
いま、もんやのあった所はすっかり住宅地に変わり、もんやの鐘も失われて久しいが、村の辻には寂しげにもんや稲荷だけが残されて、当時の昔話を今に伝えているのである。