三浦市のバス停「三崎東岡」のあたりまで来れば商店も多く、かつての三浦三崎の賑わいをかすかに留めるところです。
この三崎東岡のバス停から少し南下した所の角を入っていくと、路地の脇に古びたコンクリート製の階段が見え、その脇に簡素な地蔵堂が建っているのが分かります。
その階段の奥には、民家と見まがうような閻魔堂が見えてきます。
これは、地元では「東岡の閻魔さま」と親しまれている閻魔堂で、正確には無縁寺というそうで現在は廃寺となっているそうです。
戦前まではきちんとお寺として機能しており、地域史研究家である松浦豊先生の著書には「縁日には露天商まで出て大変な賑いであった」と言及されていますが、現在ではその痕跡はなく、境内には参詣者の人影はありません。
無縁寺というのは、無縁仏を祀るお寺に多くつけられる名前です。
同じような名前のお寺は全国に多く作られましたが、その性格上、代々の檀家がなかなかつかないので廃寺となってしまう場合が多かったそうです。
現在では、このお堂の扉は固く閉ざされ、扁額や香炉などお寺である事を示す痕跡も見当たりませんが、ただ傾きかけた夕日の中に、わずかに残された念仏供養塔と、その奥の墓石が寂しげにたたずんでいるのが印象的でした。
前述の松浦豊先生の著によれば、堂内には2メートルにも近い巨大な阿弥陀如来像をはじめとして、閻魔大王と十王像、鬼卒像、 奪衣婆、人頭杖などが、ほこりにまみれて並んでいるという事です。
また、閻魔大王の持ち物として人頭杖というものが伝えられているそうです。
これは憤怒形の男顔と、柔和な女顔の像で、男はその三つ目で亡者のすべてを見抜き、女はその鼻をもってすべての善悪の香りをかぎ分けるのだと言います。
また、人間の生前の罪悪の比重を計る道具の一つとして人間を計るハカリがあるそうです。それは若い女性が素裸で吊されている珍らしいもので、これで人間の善悪を計ったのでしょうか。
閻魔大王は、ここ三浦半島だけでもいくつもの造像例があります。
それらの多くは閻魔堂に大切に納められ、ここ無縁寺のように鍵がかかったお堂の中で人知れずしてホコリをかぶっているものも少なくありません。
人間は死ぬと初七日、十七日、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、 七七日、百日、一年と十王によってその善悪のすべてが調べ上げられ、最後に閻魔大王に尋問のうえ最後の審判が下されます。
閻魔大王は宋風の道服に身を包み大きな冠をかぶって、口を大きく開いては巨大な目をギョロつかせて亡者を縮み上がらせます。
その御前には人間の生前のすべてを映し出すという鏡を据え、それでも嘘をつく亡者は巨大なヤットコで舌を抜かれてしまうぞ、と昭和世代は教えられたものです。
大正2年、北原白秋は三崎に住んだおり、この閻魔堂を中心とした情景を「閻魔の反射」という歌集にて
大きなる 閻魔の朱面 くわつと照り かがやく寂しき 寂しき畑
畑打てば 閻魔大王 光るなり 枯木二三本に 鴉ちらばり
鍬下ろせば うしろ向かるる 冬の畑 そこに真赤な 閻魔の反射
と登場させています。
現在、この無縁寺は固く鎖錠され、閻魔様のご尊顔を拝することはなかなかできそうにありません。
ただ唯一、手元の蔵書「三浦半島の史跡と伝説」「神奈川の郷土美探訪」にはなかなか立派な閻魔大王や人頭杖の写真が掲載されています。
今となっては貴重な資料なので、ぜひとも一読されてはいかがでしょうか。
いま、この無縁寺の境内に立ち、詣でる者もなく淋しく立ち並ぶ無縁の墓石たちを前に手を合わせるとき、かつて冥界での幸せを願い一心に閻魔大王に祈りを捧げた信心深き人々の後ろ姿がにわかに蘇るようで、ここにも時の流れのはかなさというものを身に沁みて感じたのです。