第三京浜、港北インターチェンジのところから小机大橋を経て鶴見川を渡り、小机町へと向かいます。この小机大橋を渡ったところは古くは矢之根、または北根方という字で呼ばれていたところで、ちょうど小机城の北側に当たります。
明治時代初期の古地図には、現在の新矢之根の交差点のところに長福院というお寺があったそうですが、大正時代以降の地図からは記載が無くなり、現在ではその痕跡すら見当たりません。
気になって江戸時代の歴史資料「新編武蔵匡風土記稿」で「橘樹郡 神奈川領 小机村」を調べると、
長福院・・・五六橋の傍にあり。辻堂にて一寺と云ほとのことにはあらず。浄土宗にて泉谷寺の持なり。閻魔の像を本尊とす。堂は西向にて四間に三間半なり。
とあり、小さな閻魔堂であったことがわかります。現在は時代の波に押し流されてしまい、廃寺となってしまったようです。
さて、この新矢之根の交差点のところに、長福寺と関係があるかどうかは詳らかではないものの小さなお堂の中に石仏が祀られていました。
この石仏は、頂上部に陰刻された梵字から馬頭観音像であると思われます。
細身で六本(六臂)の腕をもち、どこかしら足が短く、均整に欠ける体つきをしているように見えます。
また、その足の下には三猿がふんばっているのを見ることができます。
この馬頭観音の脇には、猿田彦大神でもある旨を示す卒塔婆が奉納されています。
猿田彦大神は日本神話「古事記」や「日本書紀」では、天孫降臨の際に天照大御神に遣わされた邇邇芸命(ににぎのみこと)を道案内した国津神としても紹介され、それがもとで禍を払いのける力がある、と信仰されたとの説があるほどです。
猿田彦大神は「道をつかさどる神」としての存在から道祖神へと信仰の形態を変え、さらに、「大田神」とも呼ばれる豊作の神としての期待もかけられたというのです。
元来、「田の神」というものは山から降りてきて、田畑の耕作が済めば山へ帰る神であり、さらに「猿」は「山の神」の化身として「山王」とも呼ばれていたそうです。
山の神、田の神の二面性を持つ猿田彦大神というものは、耕作の中に生きた農民たちにとって、豊作祈願の庚申講の神としてなくてはならない存在だったのかもしれません。
現在、このあたりの田畑はほとんどなくなってしまいましたが、お堂のわきにはわらじが奉納されて昔の暮らしをわずかながらに偲ばせています。
また、その傍らには町内会による興味深い石碑が見受けられました。
絵馬堂というのは閻魔堂、すなわち先ほど紹介した長福院のことでしょう。
「五六橋の傍にあり」とある「五六橋」は現在ではなくなってしまいましたが、その五六橋の由来が書かれていて非常に興味深いものがあります。
この小さなお堂は、ちょうど小机町の方へと向かって走っていく数多の自動車の群れを眺めながら、今日も静かにこの地に立ちすくんでいます。
かつて、この交差点のところに閻魔堂があり、亡者の悪事を懲らしめ断罪すると恐れられた閻魔様の前で、若者たちは夜な夜な賭け事に興じたことでしょうか。
いま、この地に立って交差点を流れていく車の群れを眺めているとき、その頭上を飛んでいく雀の群れだけは往時の光景を今に伝えているようです。
かつて、ここに営まれていた閻魔大王に対する信仰と、庚申講を通じて朝まで語り合った村人たち、橋をかける費用を賭けて博打に熱を上げていた若者たちの姿が走馬灯のようにぼんやりと浮かんでくるようで、ここにも時の流れの無常というものをひしひしと感じるのです。