葉山町堀内の小浜海岸はヨットの発祥地で、近隣には有名な葉山マリーナなどがあり、シーズンともなればたいへんな賑わいです。
また、この近くにはアナキスト大杉栄が複雑な四角関係の恋愛の末に神近市子に刺されたという、「日影茶屋事件」 の舞台となった老舗の日影茶屋があります。
そんな、歴史と「夏真っ盛り」が入り乱れた街の片隅に、ひっそりと忘れ去られたように佇んでいるのが海宝寺で、一見すると一般の家庭と見まがうような小さなお寺です。
階段を上がると、すぐにこぢんまりとした本堂が見えてきます。
詳しい由来などは分かりませんが、「新編相模国風土記稿」の「三浦郡 衣笠庄 堀内村」の欄に光徳寺の子院として紹介されており、
海寶寺
と簡単に紹介され、現在でも光徳寺が管理されているそうです。
ちなみに、除地とは江戸時代、幕府や藩から年貢を免除された土地のことです。
幕府からも一定の信仰を得た、由緒正しいお寺なのでしょう。
地元では「かんのんさま」と呼ばれて今でも大切にされ、有志によっていつも綺麗に維持されています。
この日、堂内へとお参りをさせて頂きましたが、堂内もとても綺麗に保たれていました。
みうけんは清々しい気持ちで、観音様に延命十句観音経をお唱えさせていただきました。
さて、このお寺の敷地内には墓地があります。
お寺に墓地はつきものですが、特にこのお寺には無縁仏の石塔がギッシリと並べられているのが目につきます。
その無縁仏の群列の前に陣取って不敵な笑みを浮かべる老婆の石像、これこそが三浦半島では珍しい葬頭河姿(そうずかばあ)、すわなち奪衣婆(だつえば)の石像なのです。
奪衣婆については、以前にも真鶴町の「笑う奪衣婆」を紹介させて頂きました。
奪衣婆は、亡者が冥土とへおもむく旅の途中には、必ず一度は渡らなければならない三途の川があり、そのほとりに待ち伏せては亡者の着物を奪い取り、その着物の重さで生前の罪を計ったのだそうです。
胸をはだけさせ、しなびた乳房を垂らした姿は奪衣婆の特徴的なポイントでもあります。
通常、奪衣婆は以前に紹介した真鶴の奪衣婆などのように痩せた風貌のものが多いのですが、こちらの奪衣婆は憎々しいまでに肥え太り、その堂々とした貫禄はなかなかのものです。
この奪衣婆の後ろに控える数百基の無縁仏は、ことごとくこの奪衣婆によって監視され続けているのでしょうか。
飛ぶ鳥をも射るような奪衣婆の鋭く重い目つきは、どちらかというと憤怒よりも苦悩の表情を感じさせながら、いまだしっかりと人生を生きているこちらにも容赦なく向けられているかのようです。
この裏には、岩山の丘がそびえています。
これが名勝鎧摺で、この山の頂上に旗幟を立て気勢を揚げたところから、旗立山、ま たは軍見山とも呼ばれています。
また、寺の中には寛文年間の磨滅した庚申塔や、地蔵菩薩、さらに僧侶の墓と思われる詳細不明の丸型石塔(無縫塔)が立ちならび、かつての人々の信仰を今に伝えているかのようです。
合掌礼拝してお寺を出ると、細い道を隔てた先にはすぐに葉山のマリーナが見えてきます。
これらはみな金持ちの道楽で、いつかはこのようなヨットを一隻買って大海原を駆ける趣味など楽しんでみたいものですが、みうけんの給料ではラーメン一杯を買うのが良いところですね。
いま、この葉山マリーナのあるところから遠くに鐙摺の山、そして海宝寺を眺める時、かつてこの土地に生きた人々の観音様にたいする一途な願いがよみがえってくるようで、ここにも有為転変の無常をひしひしと感じるのです。