眼下に雄大な三浦海岸を望む京浜急行の京急長沢駅から山側に少し向かっていくと、深淵たる緑に囲まれた日蓮宗寺院、南向山 本行寺があります。
普段は観光客が訪れることはあまりない、住宅街の中の静かなお寺ですが、境内には古い石仏が多く残されているうえに巨人の伝説も残されていて、見所には事欠かないお寺でもあります。
このお寺の創建は永禄元年(1558年)のことです。
この永禄元年という数字にピンと来た方は相当の歴史好きだと思います。そう、あの木下藤吉郎=のちの豊臣秀吉が尾張国で織田信長に仕えた年です。
本行寺は、この年に日咸上人によって創建されたのち、天明元年(1781年)には現在地に移転しています。
みうけんは、このお寺に参拝していて無数に並べられた無縁仏の郡列に出会いました。
無縁仏というのは平たく言えば、墓参りにくる人が途絶えてしまったお墓のことで、このブログでも過去に何度となく取り上げています。
その多くは観音菩薩と地蔵菩薩の立体的な像が陽刻された見事なものが多いのが特徴です。これらはほとんどが江戸時代のもので、脇に彫られた戒名を注意深く読んでいくと、「童子」「童女」などという、子供につけられた戒名が多いことに気がつかされます。
これは、江戸時代にも幼くして亡くなってしまう子供たちが多くいたことの証左でもあるのです。
水戸黄門などの時代劇を見ていると、天下泰平を謳歌する江戸時代というものは平和で華やかであり、みんながみんな綺麗な着物を着ていたように描写されています。
正直、みうけんは江戸時代には行った事がないので、それらがどこまで本当でどこまでが創作なのかが分かりません。
しかし、飢饉や天変地異、ドラマに出てくるような悪代官に盗賊の群れと、生きるのが大変な時代でもあった事は間違いのないようです。
まして、医学も発達しておらず貧富の差もあった時代。
よく「士農工商えたひにん」などと言いますが、その上であるはずの侍ですら下級の侍は「さんぴん」と馬鹿にされ、またその次男三男ともなれば剣術の修行どころではなく、明日の糧を得るための内職ざんまいだったといいます。
そのような時代ですから、多くの人たちが満足に寿命も経ずに亡くなっていった事でしょう。
ここに並ぶ墓石を一つ一つ見ていくと、若くして亡くなっていった人たちが多かったことが分かります。
天下泰平、もう戦はないとうたわれた江戸時代。
確かに戦はなくなりましたが、生きていくこと自体が戦いのようなものでもありました。
当時の富が集中した江戸の町をはじめ、多くの人たちがその日を一生懸命に暮らし、無名のまま亡くなっていたことを思うとき、かつてこの小さな墓石にも一つ一つの人生が秘められていたことをにわかに思い出し、無常流転のことわりを思い出すのです。