海老名市下今泉の鶴松交差点のところは、田んぼが広がる中に徐々に新しい建物も出来始め、道路も大きく広がって日々その姿を変えつつあります。
昔、この鶴松というところに、とても働き者で正直者、かつ親孝行の彦六という若者が住んでいたそうです。
ある年の暮れ、彦六は正月用の門松を切ろうと鳩川の近くにあった松林へとやってきました。
彦六は買ったばかりの新しいナタの切れ味を試そうと、形の良い松を探しながら林の中を歩きますが、なかなか良い形の松が見つかりません。
時間ばかりが過ぎていき日も傾き始めたころ、今まで歩いてきたあたりへ引き返すととても立派な松が目の前に生えているのを見つけました。
おかしい、いま歩いてきた道であるが、こんな松に気づかなかったとは。
そう思った彦六でしたが、さっそくナタを振り上げて松の木に切りつけました。
松の木は瑞々しく、いかにも柔らかそうな若い木です。
簡単に切れるかと思った彦六でしたが、カチーンと金属を叩くような音がしたかと思うと、よく切れるはずのナタが跳ね返されて川の中へ落ちてしまったのです。
当時のナタというのは高価なものですから、彦六は諦めることができません。
服を脱いで真冬の凍りつくような川に入っていき、深いところまで探していると、どこからか彦六を呼ぶ声がします。
振り向くと、そこには若くて美しい女が立っていました。
美女はここで何をしているのか、と彦六に問う、と彦六はナタのことを話しました。
すると、そのナタは女性が拾って家に持って帰ってしまったので、家まで取りに来るように言うではありませんか。
彦六は言われるがままに美しい女の家へついて行きましたが、それは見上げるような立派な御殿だったのです。
そのあまりの立派さに、彦六はたいそう驚きました。
屋敷の中に招かれたと思うと、美女が数回手をたたいたのを合図に、見た事もないような御馳走が運ばれてきました。
それからは夢のような時間が続いたのは言うまでもありません。
彦六はすっかり時がたつのも忘れてしまい、気が付いた時にはもう何日も過ぎてしまっていたといいます。
急に家に残してきた親を思い出した彦六の心中を悟るように、美女は家が恋しくなったのであれば引き留めはしないと言って、その美女が大切にしているという玉手箱を差し出してきました。
その箱には「すずめの空音」という宝玉が入っており、この美女が恋しくなったら玉を振ればよいが、この事は決して人に漏らしてはならないという事でした。
美しい箱を抱えた彦六が帰ってきたのは、すでに3年の歳月が流れた故郷でした。
彦六はすっかり死んだ者と思われていたので村人はたいそう驚きましたが、今までの事を彦六から聞くたびに村人たちは玉手箱の中身が気になるのは必定です。
最初は美女の言いつけを守って秘密にしていた彦六でしたが、村人たちのしつこさに根負けした彦六は、とうとう村人の前で箱を開けてしまったのです。
その途端、空には暗雲が立ち込めてはけたたましい雷鳴をとどろかせ、彦六も箱も煙のように姿を消してしまったのです。
それから、彦六は二度と帰ってくることはなく、その後村人たちは天女のような美女に彦六が手を引かれながら、はるか高くの雲の彼方へ飛び去っていく夢を見たという事です。
いま、この鶴松のあたりはいくらかの田んぼと、田んぼを埋めて造成した住宅地が広がります。
ここから鳩川へは5分もかからないところで、この辺りをさして彦六ダブと呼んだそうです。
その後、彦六がどうなったのかを知る者は誰もなく、未だに彦六ダブの伝説は地元の古老たちによって語り継がれているという事です。