JR根岸線の本郷台駅から住宅街の中を北東にいくと、小山台の家並みの中に小菅ヶ谷学園・小菅ヶ谷幼稚園が見えてきて、園児たちの楽しそうな歌声が聞こえてきます。
その道すじのT字路のかたわらに、立派な地蔵祠に入れられたお地蔵さまを見つけました。
このお地蔵さまは、まごう事なき墓石です。
この近辺では「いぼとり地蔵」と呼ばれているそうです。
舟形の光背の両脇には、きちんと戒名が刻まれており、肉眼ではハッキリと読み取ることはできないものの背後の案内看板によれば
光誉浄春禅定門 正保四丁亥年十月三日
嘆誉栄讃禅定尼 慶安三庚寅年正月廿一日
施主 田中
と読み取ることができるそうです。
「光誉浄春禅定門」さんの亡くなられた「正保四丁亥年十月三日」とは、西暦にして1647年。
江戸幕府の第3代征夷大将軍であった徳川家光公のころで、戦国時代が終わって天下泰平の江戸時代も軌道に乗り始めたころといえます。
また、「嘆誉栄讃禅定尼」さんの亡くなられた「慶安三庚寅年正月廿一日」は「光誉浄春禅定門」さんの亡くなられた年から3年後にあたり、西暦にして1650年。
あと一年で征夷大将軍が徳川家光公から徳川家綱公へと代替わりしようという年です。
この両名はご夫婦だったのでしょうか。
このお二人の名前は、小菅ヶ谷は大善寺に今も残る過去帳に記載されているということです。
この地蔵堂を建立し、この案内石碑を建てられたのはこの墓石に葬られた方の子孫と思われる、田村家の方の名前が入っています。
これによれば、田村家の姓はもともと田中であったものを明治時代に田村姓に変えた、と記載されています。
関係があるかどうかは定かではありませんが、この近辺の家々の表札を見て歩くと、一定の割合で田中姓の家を見ることができます。
この石のお地蔵様は、この説明石板には「県内で2番目に古い石地蔵といわれている」とあり、少なくとも400年に渡って人々の暮らしを見守り続けてきたのでしょう。
戦国時代も終わり、泰平の世となった栄区の情景というものは、どのようなものだったのでしょうか。
時代は降って令和と呼ばれるいま、道路はすっかり舗装されて広くなり、道をゆく人々のいでたちも変わり、牛車や馬車に代わって自動車が走るようになりました。
時代は大きく変わりましたが、今日もこのお地蔵さまは物言わずして静かにこの場所におわし、移り行く時代と人々の営みをじっと見守っておられるのです。
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