三浦海岸の南側、十却寺から少し南側に行ったところの砂浜あたりには、小さな磯場が点在するところがあるが、この磯は一見して小さく、まったく無名の磯のように見えて「琴音磯」(ことねいそ)という立派な名を授けられており、今なお綺麗な砂浜の中に見え隠れする小さな磯は、いくつかの不思議な伝説を残しているのである。
まず、もっとも有名なものに室町時代の三浦一族の首領、三浦道寸義同公にまつわるものがある。
ある日、この辺りを治めていた三浦道寸義同公が、家臣の菊名左衛門などを連れて狩りに出た帰り道のときである。
たまたまこの付近をさしかかると、どこからか余りにも美しい琴の音が聞こえてきた。
はて、なぜこのような寂しげな所で美しい琴の音が────。
不思議に思った一行はその音をたどって浜に下りると、意外にも琴の音と思ったのは岩間に湧き出る泉水の響きであったという。
それ以来、ここを琴音磯と呼ぶようになったという。
むかし、源頼朝が家来を連れて狩りへ出かけたときの事である。頼朝は喉が乾き、家来に水を所望したのだが、このようなところにあるのは海水と砂と森ばかりで、どこに行こうとも清水などあるわけがなかった。
ほとほと困り果てた家来たちであったが、どこからか聞こえてくる美しい琴の音に心を奪われ、源頼朝みずから「はて風流な」と引き寄せられて出てみると、そこには冷たく清らかな水がこんこんと湧き出ており、琴の音であったと思ったのは清水の湧き出る音であったのだ。
その水はたいへんおいしく、たいそう喜んだ頼朝は、この磯を琴音磯と名づけたのだと言われている。
三つめは、名もなき庶民のおはなし。
昔、盗人がどこからか仏像を盗んできた。たいそう高く売れるだろうと思って盗んだはよいものの、誰も祟りを怖がって買おうとはしなかった。
すっかり持て余した盗人は、この磯に仏像を棄ててどこかへ立ち去ったのである。
しばらくして、そんな事も知らずに漁師が舟をこいでいると、どこからか美しい琴の音が聞こえてくるではないか。その琴の音に引き寄せられるように近づくと、なんとそこでは仏像が琴を弾いていたのである。
それから琴の音が絶えることはなく、この地に琴音磯の名がついたのだという。
その仏像は、後になって石井常左衛門という人が永楽寺に祀り、また一説には法昌寺に納められて大切にされていたと口伝されているのである。
最後には、これも名もなき貧しい漁師の若者のお話である。
この若者には、長いこと病気を患っている母がいた。たった一人の母のためと若者は懸命に働いたがそれでも足りず、家財の一切を売り払っては母の薬を買っていたものの、もはや家には売る物は何もなくなってしまったのである。
そこで、若者は仕方なく、常日頃から母が信仰している仏像を売る事にしたのである。
母が寝静まった夜、仏像を袋に押し込んでこっそりと家を出た若者は、自らの罪の深さに胸を痛ませ、涙を流しながら一心不乱に走り街を目指した。
しかし、足元は暗く動揺する心のうちから、木の根に足を取られて転ぶと、仏像はコンコンと音を立てて深い岩の間に落ちて行ってしまったのである。
若者は大慌てで探し回ったが見つかるはずもなく、落胆のまま家に帰ると母にすべてを打ち明けて涙を流して詫び、夜が白むのを待って再び探しに出かけたのである。
すると、仏像が落ちていった辺りの、近くの岩の間から美しい琴の音が聞こえてきた。何事かと思って若者が覗き込むと、なんとそこでは失くしたはずの仏像が穏やかな表情で、微笑みを浮かべながら琴を弾いていたのである。
この事を聞いた村の長は、とてももったいない事であるとしてこれを丁重に祀り、村の長や住職は若者の孝心をほめたたえ、きっと仏様が助けると諭されたのである。
やがて、月日が流れるに従い、老母の病はたちまちのうちに癒え、また周りがどんなに不漁の時でも若者のところには大漁が続いて、豊かに幸せに暮らしたのだという。
これらはみな、三浦半島の歴史をつづった地域史料を図書館で借りてきて抜粋したものであるが、どの物語にも美しい琴の音が原題となったことは変わらず、武将の狩りの話と琴を弾く仏像の話に分かれているのが実に興味深い。
このような、誰もが何も知らずに通り過ぎてしまいそうな、小さくて目立たない磯にすらきちんと名を与えられて、その由来が物語りとなって語り継がれているところに、民話というものの無限の可能性を見出すことができるのである。