京浜急行の終点である三崎口駅を降り、駅前の国道134号線を南下していくと引橋の交差点がある。
引橋は大きな三叉路だが、実は左手に登っていく細い路地があり、この細い路地をずっと登っていくとやがて菊名川の上流に出る事が出来る。
ここまで来ると三崎口駅前の喧騒はうそのようで、ただただ谷戸の間に田畑が続きトンビの声だけがこだまする のどかな農村地帯となり、その山裾の木陰の中には目を凝らさないと見過ごしてしまいそうな小さな神社がひっそりと建っているのがわかる。
この社は正式には水間神社、近隣では水間さまと呼ばれて地域の崇敬をうけているが、時代もうつりかわり訪れる人もめっきり減ったようである。
この社の中には小さな神殿が祀られており、一昔前まではいくつかの哺乳瓶や赤ちゃん用のおしゃぶりが奉納されていた。
この社の下には今なおこんこんと湧き出る清流があり、これが今なお続く武将の乳母の伝説の場所である。
この泉を飲むと乳の出がよくなるという伝説があり、乳の出を願って、また我が子の健やかな成長を願って、この清水を飲みに訪れる参詣人は後を絶たなかったというが、今ではこのことを知る人は徐々に減り続けているのだろう。
時は永正年間(1504-1521)にさかのぼる。
この地域を治めていた三浦道寸義同の家臣で、菊名左衛門重氏(しげうじ)という人物がここに館を構えていたという。
この菊名左衛門重氏は大森越前守、佐保田河内守、初声太郎行重、一色十郎兼忠、芦名三郎、長沢六郎にならぶ三浦党七人衆として武勇の誉れも高く名を馳せるのであるが、幼いころはまったくの病弱であった上にいつしか乳母の乳が出なくなってしまい困っていたところ、乳母の夢の中で「ある泉があり、その泉を飲めば乳の出が良くなる」というお告げを受けたという。
早速その乳母は菊名川の水神様に出向き、100日の願掛けをしながらこの水を飲み続けたところ、たちまち飲みきれないほどの乳が乳房から噴き出し、その乳を飲んだ重氏は強健に育ち風邪ひとつ引く事がなかったという。
この霊泉は近隣ではたちまちのうちに話題となり、乳の出の悪い母親たちがこの霊水を求め連日行列をなしたということである。
昭和の終わりまでは、この霊験あらたかな霊水の加持力にあやかろうと横浜や静岡、千葉からの人まではが訪れて乳首などを奉納していたが、平成も終わりとなった今ではその風習もすっかり廃れてしまったかのようである。
いま、訪れる人のめっきり少なくなったこの小さな社の下で、誰からも気にされることがなくともこんこんとわき続ける湧水は、その静寂の中にあっていつまでも絶えることなくわき続け、確かなる伝説を今に伝えるのである。