三浦半島を南下していくと横須賀市が三浦半島の大部分を占める地域に入るが、その少し手前、三浦半島の中心にほど近く、葉山町と横須賀市の町境にある木古庭の里は通る人も車もまばらで、昼なお静かな日本の原風景を見ることができる。
その木古庭の里道の傍に、今となっては訪れる人もまばらな石塔があり、その表面には
南無妙法蓮華経
諸天昼夜常当為法政而衛護
と陰刻されている事から、日蓮宗部落の庚申塔である事が読み取れるのである。
この庚申塔は目立たない庚申塔であるばかりか、かなり目を凝らさないと陰刻の文字すら判読が難しいが、昭和45年に葉山町の指定文化財に指定されており、個人の所有ながら実に大切に守られてきたのである。
もともと、この木古庭や隣の阿部倉のあたりは日蓮宗の霊跡も数多く残され、日蓮宗の開祖である日蓮聖人の霊跡も残されている由緒あるところである。
庚申塔はふつう青面金剛像を中心に据え、青面金剛が踏みつける邪鬼の下には「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿をあしらうのが常であるが、このあたりの庚申塔を一基一基眺むれば、南無妙法蓮華経の七字の御題目を中心に据えているものが多く、この地の日蓮宗にたいする信仰の深さがうかがえる。
この大沢の庚申塔は延宝2年(1674年)の年号が刻まれている。江戸時代も始まったばかりの第4代将軍徳川家綱のころである。
庚申というのは、人間の体内に住む「三尸(さんし)の虫」が干支の「庚申」(かのえさる)の日の晩、人間の体から抜け出しては人間の悪事を閻魔大王に告げ口に行くと信じられていたことから、三尸の虫が体から出られないように庚申の日は夜通し起きている決まりがあった。
その集まりが庚申講であり、無事に朝まで起きていた記念、強いて言うならば極楽浄土への道すじを保証できた記念として建てられたのが庚申塔である。
今から350年近く前、この地のあたりでは日蓮宗の信仰が盛んで、この木古庭でも庚申講の日が来ると講中の人たちは三々五々集まっては料理を持ち寄り、あるいは酒を酌み交わして朝まで語り合った事であろうか。
その記念として作られたのがこの庚申塔であり、この庚申塔の前に立って手を合わせれば、庚申講に向けられた死後安らかなれという村人たちの願いが聞こえるようであり、ここにもいにしへの人たちの営みが見えてくるかのようである。