横須賀は古くから軍港として栄え、現代でも港と海軍の街として有名であるが、その反面で急峻な山坂も多く、少し山側に入れば人口も交通量もめっきり減って、一気に山深き森の合間に家が点在する実にのどかな光景が広がっている。
その中でも、さらに山深く入っていくと地域は横須賀市から葉山町へと変わるのであるが、その木古庭というところの、人があまり近づかない竹林の奥深くに日蓮宗開祖である日蓮聖人の霊蹟あらたかな井戸がひっそりと眠っていることを知る人はいくらほどいるのだろうか。
本通りから離れ、車が一台通るのがやっとという細い道幅の、またさらにかなり急坂で、一度停まってしまったら坂道発進が難しそうな坂の途中に、粗末な手作りの看板と共にぽっかりと入口が口をあけているのが分かる。
ここからはとても原付でも入る気がしなかったので、原付を入口に停めて徒歩で竹藪の奥深くに分け入っていくのである。
途中、道なのだか竹ヤブなのだか分からないところもあるが、もはやこのような所を知り、訪ねる 物好き 者も少ないのであろう。
やがて50メートルほど行くと、竹林の中にコンクリートブロックで囲いが作られ、トタンの屋根がかけられた井戸が一つ見えてくるが、この今にも落ち葉に埋もれそうな小さな井戸こそが日蓮聖人の霊蹟であると伝説を残す高祖井戸なのである。
覗いてみると水は澄み切って、写真では良く分からないものの、なかなかの深さもあり、みじんの濁りも感じられない。
この水は日蓮聖人が硯水として使用されたという伝説の残る井戸で、その霊力により枯れる事はなく水はこんこんとわき続け、もともと水源の少ないこの木古庭の地において、どんな日照りでも枯れる事はなくずいぶんと村人の助けになったという。
この地域に水道が魅かれたのは昭和に入ってからであるそうだが、それまでは近隣の家々ではこの井戸の水を飲料水として用いてきた。
その水の有難みは今とは比べ物にならないほど重く、ことに日蓮聖人ご霊蹟とあっては大変ありがたく、明治28年(1895年)には井戸の脇に高さ1メートルほどの記念碑が建立され、「流澍無量 卒土充洽」「明治廿八年一月十一日 高橋彦次郎 稲葉久太郎 建立」、真ん中には大きく「南無妙法蓮華経 宗祖御硯水旧跡」という御主題が彫られているのである。
「流澍無量 卒土充洽」というのは「妙法蓮華経」の「薬草喩品」第五部に出てくる一節であるが、「その雨はあまねく降り続け、流れはとどまらず、たちまち全土を潤した」といったところだろうか。
今では表通りから遠ざかった、うっそうと深い竹林の中にも、かつての多くの人たちに愛され親しまれた日蓮聖人の痕跡がしっかりと残っているのである。
このお寺とこの高祖井戸は実にかかわりが深いのである。
日蓮聖人は現在の千葉、房総でお生まれになり、当時日本の首都でもあった鎌倉の地で教えを広めるべく海を渡って横須賀の米ヶ浜に上陸した。横須賀から鎌倉までの道すがら、衣笠を越えて木古庭でも村の人々に教えを広めんと庵を結んだのがこの本圓寺のはじまりであるとされる。
しばらくは法華の教えを学ぶ道場であったが、のちに日印上人という日蓮聖人の孫弟子によって(日蓮聖人→日朗上人→日印上人)開山された由緒正しいお寺であり、その境内には昭和55年(1980年)に日蓮聖人の没後700年を記念して作られたブロンズ像が飾られているのである。
いま、訪れる人もまばらで地域でも忘れられて行こうとしている小さな井戸の前にたたずむとき、法華経の功徳と法力により日本の安寧と民衆の幸せを達成せんとして数々の御苦難をお受けになった日蓮聖人の功績と、法華経を信じ一心に南無妙法蓮華経と唱えた信徒たちの姿が目に浮かぶようで、またこの地を起点として歴史に名高い日蓮聖人の鎌倉での説法が始まったのだと思う時、悠久の歴史と名もなき人々の生き様を垣間見る事が出来るようで、実に感慨深いものがあるのである。