横須賀の軍港近くの繁華街から山側へと入ると、港を見下ろす小高い丘の上にあるのが大津の浄土宗寺院、宮谷山 至心院 信楽寺である。
この信楽寺は本尊は阿弥陀如来であるが、この寺に納められた正観音像は行基の作で、源頼朝の御家人である熊谷直実が出家して法然門徒となり、蓮生(れんしょう / れんせい)と号した熊谷蓮生坊の守護仏といわれており、武蔵国の熊谷寺から東海道の大津宿の信楽寺に納めるものを、間違えてこの大津・信楽寺に納められたのが起源といわれている。
また、この寺には幕末の志士であった坂本龍馬の妻「おりょう」さんの墓がある事でも広く知られて、昨今の幕末ブームや大河ドラマ放映の時には多くの参拝者が詰めかけてたいへんな賑わいであったという。
このおりょうさんの話は別記事に挙げてあるので、こちらも参考にしていただければと思う。
早春のうららかな日、この信楽寺を訪れたみうけんの目に入ったのは、厳かな本堂よりも、おりょうさんの墓よりも、本堂の脇に建てられた、あまりに美しい「見かえり観音」の石像であった。
この観音像は聖観世音菩薩であろう。
数多くある観音菩薩の中の観音菩薩であり、頭上に阿弥陀如来の仏像をいただき、左手に蓮華を持ち、右手を艶やかに垂らしているのは類まれなる美しい像容である。
本来男性でありながら、中国から日本に渡来するにつれて中性的となっていったその身体のしなやかさ、芯の強さもまた仏教の美意識を高くとらえた秀逸なものであると言うべきであろう。
特に、この聖観世音菩薩で特筆すべきところが足元の蓮華座である。
通常、聖観世音菩薩に限らず、多くの仏像が蓮華座、すなわち蓮華の花びらで作られた台座の上にあるのは珍しいものではないのだが、この聖観世音菩薩の蓮華座はなんと無縁仏たちの墓石なのだ。
江戸期の墓石には、このようにして仏像が彫られることが多くあった。
その多くは観音様かお地蔵様であることが多いのであるが、その両脇には戒名と命日が彫られていることから、明らかに死者の弔いを目的として造られたものであることが分かる。
それらは現代に至るまで、「先祖代々の墓」の片隅に安置されてお参りされている場合もあるが、その反面でこのようにして無縁仏となり、誰からも見向きもされずに落ち葉に埋もれていく場合が多いのも、数百年もたてば仕方のない事であろう。
しかし、日本の仏教の教えでは生前に成し得なかった諸々の功徳を、本人に代わって生き残った遺族がかわりに行う、それが故人に対する追善供養の考えであるとして重視されてきた経緯があり、死後の墓前や位牌にいかに多くの香華をたむけ、いかに多く手を合わせてもらえるか、というのが重要視される事もあるから、参り詣でる人が途絶えてしまうというのは亡者にとってはいかにも酷なことであり、それを救う施餓鬼の供養などがあったとしても、無縁仏のありようは実に哀れで救いようのない事である事には変わらないのである。
仏教の経典として広く衆生にも親しまれている「妙法蓮華経普門品 第二十五」、いわゆる観音経の中には、以下のような一説がある。
衆生被困厄 無量苦逼身 觀音妙智力 能救世間苦
具足神通力 廣脩智方便 十方諸國土 無刹不現身
種種諸惡趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅 ・・・
これは観世音菩薩の限りなき救いと愛をたたえる観音経の中でも、観世音菩薩の素晴らしさと魅力を余すところなくまとめたところで、要約すれば
衆生が困り事や厄災を被り、その身に限りない苦しみがせまるとき、観音菩薩の妙智なる力は、よく世間に生きる人々を苦しみから救うのである。
観音菩薩は神通力を使い、広大なる智恵を駆使して、すべての方角にあるすべての地において、仏教の救いを与える場として、その身を現すのである。
種々にわたるすべての悪事、地獄の鬼と畜生、生きるつらさ、老いへの恐怖、病の苦しみ、死へのおそれは、一つ残らず滅ぼし、衆生を安楽へと導くのである。
と説き、観音菩薩を一心に信じて念ずれば、観音菩薩はどこへでも現れ、どのような苦しみからも救って下さると説いているのである。
この信楽寺の聖観世音菩薩は、詣でる人もなくなり、香華を手向けられることもなくなった哀れな無縁仏に、あまねく広大な救いを差し伸べ、この地で未来永劫にわたってこの無縁仏の主たちを極楽浄土へと導く手助けをされる事であろうから、墓の主にとってこれ以上の幸せはないであろうと思う。
この信楽寺の本堂の脇に佇み、この見かえり観音を見上げるとき、はるかに遠くを見渡す見かえり観音の艶やかな視線の中に、未だ救いの手を差し伸べていない者がどこかで苦しんでいなかろうかと探す慈悲の心が感じられ、ここに観世音菩薩への帰依を改めて念じ、熱い心で手を合わせたのである。