みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

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波乱万丈の人生 坂本龍馬夫人 龍子の生涯(横須賀市)

京浜急行のランドマーク駅、横須賀中央駅を降りると横須賀市屈指の繁華街である米が浜通りの入り口がある。

その交差点を入ってしばらく東へ歩いていくと、その名も「おりょう会館」という葬儀場があり、その門前には坂本龍馬の妻、お龍(おりょう)の胸像が飾られているのを見つけることができる。

 

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このお龍(おりょう)は、明治維新の志士であり日本海軍の先覚者であった坂本龍馬の妻であった。

その本名は楢崎龍といい、京都下京区柳三条の医師である楢崎将作の長女であったが、父が安政の大獄で獄死したあとは困窮の生活を送っていた。

 

お龍は当時としては絶世の美女の誉れ高く、元治元年(1864年)ごろに龍馬に見初められて同年8月ごろに祝言を挙げており、その後にも茶道や華道に長け、月琴を弾いたりと一切ができる女である、と坂本龍馬が姉にあてた手紙(慶応2年・1866年)で誉めている。

 

 

お龍の生家は貧しかったが、龍馬はそのようなお龍の境遇を理解し、ことにお龍が妹2人を人買いから奪い返した逸話を家族宛ての手紙に詳しく書き送って、お龍を「まことにおもしろき女」とあらわしているのである。

 

龍馬とお龍は日本で最初の新婚旅行とも言われる温泉療養などをしながら、また志のために離れ離れとなっても手紙などを介し仲睦まじかったというが、慶応3年(1867年)12月に龍馬が京都河原町通りの近江屋で暗殺されると、お龍は龍馬の未亡人として土佐の坂本家に入ったものの、義兄夫婦と反りが合わずに3か月ほどで土佐を飛び出してしまった。

 

その後、京都から東京などを転々としていたが、妹の光枝が海軍士官と結婚した縁で神奈川県横須賀へ移り住み、明治8年(1875年)、35歳にして横須賀の大道商人・西村松兵衛と再婚し、名も西村ツルと改めたのである。

 

最初は順調に進んでいた西村松兵衛の商売も失敗すると、再び貧窮にあえぐようになる。

このころから、米が浜(当時は横須賀市米が浜ではなく三浦郡豊島町といった)の観念寺通りにあった松本という酒屋が貸し出していた、棟割長屋のたった2畳と4畳半の部屋にこもっては、よく一升瓶をかかえて酒を飲んでいたという事である。

 

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後年、明治の中頃から坂本龍馬が世間の注目を集めるようになると、海軍の創設者たる坂本龍馬の妻であったお龍のもとへも海軍の高官や新聞社らが訪れるようになり、ツルから再びお龍と名乗るようになったという。

 

時は流れて明治37年の日露戦争のおり、葉山御用邸に静養に滞在されていた昭憲皇太后の夢枕へお龍が現れたことが「時事新報」(のちに毎日新聞に合併)によって報じられ、それをきっかけに、皇太后の御意思で皇后大夫香川敬三が病に倒れていたお龍のもとへ見舞いに訪れ、お龍は恐縮しながら「世間に面目なく、どこにも出ておりませんでした」と答えたという逸話が残されている。

 

その間も困窮は絶えることなく、明治39年(1906年)に66歳で亡くなるまで間、ずっと貧しい生活のままであったという。

 

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死後は西村松兵衛や、その友人であった鈴木清治郎らの尽力によって、また当時の住職の理解もあって三浦地蔵尊札所第27番でもある浄土宗 宮谷山 至心院 信楽寺に葬られた。

この信楽寺は本尊は阿弥陀如来であるが、この寺に納められた正観音像は行基の作で、源頼朝御家人である熊谷直実が出家して、法然門徒となり蓮生(れんしょう / れんせい)と号した熊谷蓮生坊の守護仏といわれており、武蔵国熊谷寺から東海道の大津宿の信楽寺に納めるものを、間違えてこの大津・信楽寺に納められたといわれている。

 

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大正3年、海軍士官に嫁いだ妹・君枝の計らいで寄付を募り、この墓が建立されたのであるが、西村松兵衛と再婚した後も、坂本龍馬の妻であったことは決して忘れず、また西村松兵衛自身の理解もあったのであろう。

過去帳には「西村松平エ妻ツル」と記されながらも、墓石には今なお西村の名ではなく「贈正四位 阪本(ママ)龍馬之妻龍子之墓」、裏面には「永代寄付 明治三十九年一月十五日歿 享年六拾有六 諡 昭龍院閑月珠光大姉 大正三年八月十六日 中沢光枝 建立」と刻まれているのである。

 

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むかし、京都伏見の寺田屋で、龍馬に対する襲撃をいち早く察知し、はだかのまま龍馬に知らせて危機を救った才覚の美女、お龍さんの人気は今なお衰えることはなく、その墓前には今なお香華の煙絶えることなく、真新しい花が供えられているのである。

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いま、お龍の墓へ詣でたあとに、境内に残された無縁仏を組み合わせて造られた蓮華台の上に立つ観世音菩薩の艶やかな立像を見上げるとき、幕末から明治の動乱の中で翻弄されながら、決して恵まれずに清貧にあえいだお龍さんの波乱万丈の人生に思いを馳せる時、人が生きていくという事のはかなき無常が、しみじみと聞こえてくるようである。

 

 

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