横浜市の中心部にほど近い平沼のあたりから野毛山へと向かっていくあたりに、高野山真言宗の法亀山 地福院 願成寺(がんじょうじ)があり、その本尊は秘仏の延命地蔵尊である。
この寺の開山に関しては、かつて天平年間(8世紀ごろ)に行基菩薩がこの地で水を欲して探し回っていると亀が這いだしてきたため、その地を掘ると湧き水を得ることが出来たので法亀山と名付けたのが始まりである、という言い伝えがある。
江戸時代が終わるまでは近くの戸部杉山神社と同一であり、現在の西区役所のあたりにあったと伝えられ、横浜開港後に新設された神奈川奉行所の宿舎にもなったといわれている由緒正しい古刹であるが、この願成寺には鳶の小亀という人の墓が現在もひっそりと残されているのである。
鳶の小亀事件は、慶応2年(1866年)2月に発生した。
当時、関内の横浜公園や横浜スタジアムのあたりは港崎(みよざき)遊郭といって横浜開港にともなう外国人むけの一大遊郭であった。
この遊郭はのちに大火によって移転を余儀なくされ、喜遊の悲話などを残しながら最終的に現在の横浜橋商店街の近くにあった永真遊郭へと受け継がれてゆくのであるが、この港崎遊郭で事件は発生したのである。
2月の寒い日、酒に泥酔した2人のフランス人水兵が遊郭に入って暴れていた。
もともと訪れる人もあまりいない半農半漁の寒村であった横浜は、他の土地の例にもれずヨソモノに対しては厳しい土地柄であったというが、突如として雪崩れ込んだ得体のしれない外国人たちを敵視する人も少なからずいたことであろう、このような外国人とのいさかいが絶えなかったという事である。
そこで外国人を閉じ込めるために専用の遊郭が作られた。これが港崎遊郭であった。
さらに、世間では外国人を排斥せよという攘夷派が勢いを増し、外国人を敵視する人はますます増えていた。
そこに来て、フランス所属ゲリエール号の、酒に酔った水兵たちが太田町や坂下町などで婦人を捕まえては乱暴し、とがめる役人には暴力をふるうといったやりたい放題ぶりで、しかし腕力も体格も違う当時の日本人平民は苦虫を潰して眺めているほかなかった。
そこでやって来たのが力士の鹿毛山(かげやま)長吉である。
最初は穏やかに止めに入っていたが、聞く耳を持たない水兵2人が嫌がる遊女の服をはぎ、押し倒したために、瞬く間に2人を投げ飛ばしてしまったのである。
それだけで済めば歴史には残らなかったのであろうが、それを見ていた鳶の小亀こと亀吉という男が、今こそ加勢せんと二人の水兵に小刀をもって斬りかかり、うち1人を殺してしまったのである。
2人の水兵の行いも良くないが、殺してしまってはならぬとあって侠気の男であった鹿毛山と小亀はたちまち捕縛され、国際問題を恐れた政府の意向によって鹿毛山は角界を追放され、小亀は哀れにも処刑されてしまったのである。
当時、罪人が処刑される際は市中引き回しとなるのが通例であった。
身動きできないように縛られて馬に乗せられ、警護の兵に囲まれながら街を引き回されて晒し者とされるのである。
通常であれば罪状を書いた看板とともに晒されるので、見物人から罵声や投石を浴びるのが常であったが、この小亀の時ばかりは鳶仲間や街じゅうの遊女が詰めかけ、高らかな木遣り歌と拍手喝采の中練り歩き、罪人としては異例の墓石まで建てられて、盛大に見送られたという事である。
いま、この伝説を語る人も少なくなった令和の時代、それでも願成寺の墓地には今なおしっかりとした小亀の墓が残され、時折新しい花が供えられては香華が手向けられているようである。
時代は平成から令和へと変わり、すっかり平和となった国際都市横浜の様相を、今日ももの言わぬ小亀は願成寺の墓から見守っているのである。