JR相模線相武台下駅を降り、南側の県道42号線から相模川を渡ると長福寺という曹洞宗の寺院がある。
ここまでくれば駅からも遠く離れ、訪れる人もまばらな寂しいお寺ではあるのだが、詳しい縁起は分からないものの古い歴史を持つであろうことは境内に並ぶ数多の石仏や墓石からもうかがうことが出来る。
ひときわ目を引くものに、長福寺の子育て観音がある。
この観音は、いまでは昭和63年に「如意輪観音」と刻まれた新しい台座に移されたものの、もとは「子育観世音菩薩」の石碑と共に境内入口の向かって左側に鎮座されていた。
本来、お立ちになったまま赤子を抱いているお姿が多く造形される子育て観音だが、時折このように立膝で座り、今まさに乳に吸い付かんとする赤子に優しげな表情のまま乳を差し出すお姿の像も造形され、特に秩父観音霊場第4番の金昌寺の例などが有名であるが、まったく無名のこの像にも同じような優しげな微笑みと、今まさに乳にすがりつかんとする赤子の躍動が感じられ、また観音の衣のヒダやシワの造形も美しく、おそらく名もなき石工が少しずつ、丁寧にノミを入れていったその信心をひしひしと感じる傑作である。
この周囲には数多くの石仏が残り、ほかにもまだまだ見どころはありそうだ。
視線を転じると、本来子育て観音が建立されていた反対側となる、境内入口の右手にも延命地蔵菩薩の石碑と共に数体の石仏が並ぶが、その中でもひときわ高く立つ観音像がある。
こちらは、かごに入った魚を携えた魚籃観音であり、航海の無事と豊漁を願う漁の守り神として古くから信仰されている。その性格上、海岸沿いの漁師町などで多く見ることが出来るが、なぜ海から離れた厚木に魚籃観音を建立したのか、相模川での漁の大漁を願った物だろうか。
こちらの魚籃観音はお顔が半分ほど崩れてしまっているものの、その端整のとれた顔立ちとともにカゴを持つ手指の繊細な作りで、まるで今にも動き出さんがばかりの写実性を備え、この魚籃観音を掘り上げた石工の技術の高さがよくわかる。
また、このお寺の裏手には無造作に積み上げられた無縁墓があり、また戒名すら読み取れなくなっている卵型の墓石なども見ることができるが、ここに生まれては滅し、葬られていった一人一人の栄枯盛衰が詰められている気がして、思いもひとしおである。
とくに、この長福寺では古い墓石も大切にされて一族の墓として合祀され、数百年の時をへて世代がいくら変わろうとも、決して忘れ得ぬ先祖への敬慕を募らせた里人たちの一途な信仰心を表しているのである。
とりわけ立派なのは祖国の勝利を信じ、祖国のために命を張って戦い抜いた英霊たちのお墓であり、かなりの費用がかかるであろう広く立派なお墓は、もしかすると英霊のためにと地域で費用を持ちよって作ったものかも知れない。
都会の喧騒から遠く離れたこののどかな時間が流れる御寺に、人々の幸多かれとノミに力を込めた名もなき石工の想いと、たとえ数十年、数百年たとうとも連綿と続く村人たちの先祖への想いは絶えることなく、いまなおはっきりと輝き続けているのである。