保土ヶ谷区川島町を流れる帷子川にかかる「鷲山橋」を渡って西側につながる急な坂は、昔から「りょうけ坂」と呼ばれています。
この坂は、むかし坂の上と坂の下にあったの二つの家の住人が中心となって、村の発展のために道の整備をしたことにちなんで「両家坂」と呼ばれるようになったと言われています。
この坂を上がっていくと、石垣の上に小さなお寺がありました。
その境内に至る小さな階段を登っていくと、現在は無住となった小さなお堂がひっそりと残されているのが見て取れます。
現在でこそ無住となったこのお堂は、その名を松月庵といって、歴史は古く江戸時代にはここにあったようです。
江戸時代後期に編纂された一大歴史史料の「新編武蔵国風土紀稿」を紐解いてみました。
そのうち「都筑郡・神奈川領・川島村」の項で松月庵は紹介されています。
それによれば、
松月庵
見捨地四畝二十一歩、村の南によりてあり、四間に二間の堂にて西向きなり、此堂は元禄七年僧萬⬛️といへるか建立せしよし、本尊弥陀坐像にして長一尺、四五寸はかり、随流院の持。
(⬛️の字は判読不能)
と紹介されているのです。
この中に出てくる随流院は、いまも近くの川島町に現存する曹洞宗寺院なので、この松月庵も曹洞宗であろうと思われます。
この松月庵は、風土記稿にあるように阿弥陀如来さまの坐像が本尊として安置され、今では金色に輝くきらびやかなお姿をしています。
永らく里人からの崇敬を受けたものの、明治元年(1868年)に住職が亡くなると無住となって、しばらくは荒れ放題の廃墟となって阿弥陀如来さまは本寺の隋流院に移されていました。
そんなある日、明治の中頃に仏向村から川島村の三村家に嫁いできたキヨという娘がいました。
このキヨはとても信心深く、村人や家族からこの松月庵の話を聞くと居ても立ってもいられなくなり、草は生え柱も傾いて、すっかり荒れ果てた松月庵に毎日のように通っては、草刈りや掃除をしてお世話をしていたそうです。
月日は流れて昭和の初めごろ。
ここ川島村では、はやり病によって多くの村人たちが命を落とすということがありました。
すでに年老いていたキヨでしたが、毎日毎日、松月庵に立つお地蔵さまの前にひざまづいては、はやり病がおさまって村人たちが助かりますように、と一心にお願いしたのです。
そんなある日、キヨの枕もとに阿弥陀如来さまがお立ちになり、もといた松月庵に返して欲しい、とキヨに訴えかけてきたのです。
キヨは、さっそくこの話を村人たちに伝えると、村の若い衆が中心となって荒れ果てた松月庵の再建がはじまりました。
不思議と多くの浄財が集まり、本堂もきれいに立て替えられると、ご本尊さまであった阿弥陀如来さまは松月庵に無事に戻されて、それから間もなくして多くの村人を苦しめたはやり病は嘘のように収まってしまった、ということです。
この民話は、昭和の初めごろに村をはやり病から救った、と今なお川島町に言い伝えられている「帰りたかったご本尊さま」という民話です。
いま、この松月庵は相変わらずの無住の庵ではありますが、境内は綺麗に掃除され手入れされて、里人たちから大切にされているさまが目に浮かぶかのようです。
現在、この松月庵には「帰りたかった御本尊さま」の話を忘れない里人たちが時折立ち寄っては、新型コロナウイルスが早く収束するようにと願をかけている姿を目にすることが出来るということです。
そして、キヨが一心に祈りを捧げたというお地蔵さまは、今も境内の入り口の脇にお立ちになり、穏やかなお顔で川島小学校の登下校の学童たちを見守っておられるのです。
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