横浜市のほぼ外周をぐるりと囲むようにして走る環状4号線の、最も南側に近い栄区野七里のあたりに、八軒谷戸という交差点があるが、ここから少し入っていったところを流れる鼬川(いたちがわ)にかかる、実に趣のある石橋がある。
その石橋の脇には、崖から溢れ出す湧水があるが、その水に含有された鉄分が流れのある沢を赤い錆で真っ赤に染めて、このあたりがもともと砂鉄の取れるところであった事を如実に物語っており、その名残は未だに近隣の金沢や鍛冶ヶ谷という地名に表されているのである。
栄区役所による案内看板によれば、この昇龍橋は上郷(旧上野)の村社であった「白山社」の旧社殿の参道にかかる石橋で、橋の本体は鎌倉市今泉から産出する通称「鎌倉石」または「今泉石」という水成岩であるという。
確かに、この橋を渡ったところには古びて苔むした石段のみが残されており、かつてはこの石段を登ったところに村社の白山社があったのであろうか。
文明開化から間もない明治14~15年代の地図には、しっかりと「白山社」の名前と橋が記載されている。
現在ではすっかり開発されてニュータウンとなったこの町も、かつては起伏激しく奥深い山の中であったことがうかがえるから、古地図というものは面白いものである。
この昇龍橋は、アーチ状の「眼鏡橋」という構造のもので、欄干は御影石で本体とは材質が異なっており、昇龍橋の橋名と大正四年九月吉日の銘があるが、実際の建造年代は定かではないという。
明治8年(1875年)、太政大臣三条実美の名で各府県に村誌郡誌を調査して差し出させる公達があり、明治12年頃に編成されたと思われる「皇国地誌」 には村の河川や橋梁の記録があるが、上野村の条に昇龍橋の名はみえない。
これと全く構造を一にするもので、旧庄戸堀にかけられ現存する 「經堂橋」 の名は記載されているが、「長四間四尺木製」 と記され木橋であった。經堂橋が石造のアーチ型眼鏡橋になったのは、明治30年代の末といわれるから 「昇龍橋」 も材質及び構造からその頃の建造と考えられる。
橋名と大正四年の年記を持つ欄干は材質も異なるし、また經堂橋にはこの様な欄干はないので、橋の本体より後の建造であろう。
おそらく、大正3年に大正天皇の即位の礼が挙行されたので、この御大典を記念して翌年、村社の参道の橋に御影石の立派な欄干を作ったのであろう。
9月17日は当時、村社の祭礼の日であった。
施工者は今泉で石工業を営み、現在も今泉石を切り出している石材店の先々代と推定されている。
その技術は、古くからこの石で民家の窯や炭焼窯等のアーチを作ってきたことにより習得されたものであろうか。なお、この他に旧上野村には、梅沢橋という同種の橋があったが、現在は庄戸入口の道路の下に埋没しているという。
道路の拡幅や河川改修で市内の石橋のほとんどが消滅した。 現在、この橋は市内最古の石造橋と考えられ、文化財として貴重なものであろう。
文化財といえば、この白山社の跡地には鎌倉時代のやぐらの残決らしきものが残され、中にはまるで墓標のような小さな石が立てられて、人気のない薄暗い森の中に一抹の寂しさを誘っているのである。
さらにその先には、白山社の本殿があったのであろう。
さらに高い段が設けられ、ごくまれに好事家が踏む以外は訪れる人もなく、ただ苔むして落ち葉に埋もれていくのを待つだけのようである。
その足元には鳥居の残決が残されており、かつてここに立派な石造りの鳥居があったことを物語っている。
かつて、初詣だ村祭りだといっては、多くの村人たちがこの鳥居をくぐり、その賑やかさたるや、いかばかりであったろうか。
いま、この訪れる人もない昇龍橋のたもとの白山社の跡に立ち、昔と変わらぬ小川と里山の風景を眺めながら、薄暗い林の中に一人たたずむとき、かつてここが村の中心であり人々の生活と切っても切れぬ村社があった日のことがにわかに思い出され、ここにも時の流れの移り変わりがそくそくと感じられるのである。