江戸幕府の権勢にもかげりが見え始めた江戸幕府の末ごろの時代、4隻の黒船が来航したのを契機として、徳川幕府は江戸湾防備のために三浦半島の海岸線に沿って彦根藩、会津藩、川越藩、忍藩からなる各藩士を集めては、陣屋と台場を築かせて江戸湾防備の任に就かせた。
文化8年(1811年)のこと、会津藩の松平肥後守は、城ケ島の安房ヶ崎に砲台を築城するべく、田辺半兵衛以下83人を連れて城山に陣屋を構えると、文政4年(1821年)までの10年間にわたって海上警備の任についたのである。
その間、家族たちも夫について任地に赴いたのであるが、故郷から遠く離れては帰ることも簡単ではなく、病で倒れていった会津藩士たちやその家族の墓が今でも三浦半島には多く残されているが、その数は三浦市だけでも城山に27基、大椿寺には7基、最福寺には1基が残され、横須賀市の西徳寺などにも数多く残されて今なお故郷に帰ることもままならない、そのさまは一抹の悲哀を誘っているのである。
三浦半島の郷土史研究家、松浦豊氏の上梓された「三浦半島の史跡と伝説」という本があるが、ここに会津藩士にまつわる一つの話が掲載されているので参考にさせて頂きたいと思う。
それによると、
三崎の海を見下す最福寺山には、会津の侍に伝わる奇しくも悲しい物語がある。太平洋戦争が終わった翌年の昭和21年8月の蒸し暑い夏の夜である。
最福寺の老僧、尚寛和尚がまだ若いころで広い庫裡の奥の間の薄暗い蚊帳の中で眠っていたが、あまりにも蒸し暑さにふと目を覚ますと、蚊帳の外でやせ細った背の高い青白い顔をした一人の侍が座っていた。この侍は威厳のある学者ふうで、和尚のほうをじっと睨み付けていた。その凄みのある恐ろしい顔容には、一瞬声も出なかったという。
その時一室離れた茶の間に寝ていた母堂(歌手三浦洸一氏の母)が、和尚の余りにも激しい唸り声に目を覚まして来てみると、すでに侍の亡霊の姿はなかったという。
これはきっと浮かばれない侍の墓があり、無縁になっているのではないかとの母堂の言葉に早速、鳶職の親方に来てもらい土地を調べたところ、城ケ島を望む土手の片隅に半分ほど埋もれた立派な無縁の墓を発見した。掘り起こしたところ、これが会津藩士の妻の墓で、正面には「高津忠貴妻之墓」とあり、右側には文政己卯年三月二十三日卒年五十九歳橘孝子」と陰刻した立派な墓であった。
早速この墓を掘り起し本堂前に移し、懇に回向したところ、亡霊は再び出なくなったという。夫の会津藩士忠貴は軍船の武将として、榎本武揚などと五稜郭で戦い、行方不明となったということである。
これは恐らく夫の高津忠貴が、遠く離れた異郷の地でなくなった愛する妻に会うために亡霊となって現れたのであろうと、和尚が語る仏縁の不思議な話に頭が下がる思いであった。
この「三浦半島の史跡と伝説」によれば、この島津忠貴の妻の墓と言われているものは、現在も最福寺の境内にひっそりと、かつ大切にされながら立っているという。
「三浦半島の史跡と伝説」でも紹介されていた最福寺は浄土真宗本願寺派の寺院で、三浦三崎の街を一望する高台の上に立っている。
歌手として紅白歌合戦などにもたびたび出場した歌手の三浦洸一氏は、この寺の三男・第四子として生まれた。長兄はビルマで戦死した為に次兄が住職を継ぎ、その次兄も1993年に亡くなり、現在は甥(次兄の長男)が住職を務めているそうである。(Wikipediaより)
このお亡くなりになった次兄というのが、上記の逸話に出てくる「最福寺の老僧、尚寛和尚」であろう。
現在でも境内には鐘楼があり、ここに下げられている梵鐘は三浦洸一氏が寄進されたものだそうである。
そして、本堂の目の前に、真新しい墓に混ざって一つだけ古ぼけた墓があるが、これこそが会津藩士高津忠貴の、妻の墓であるという。
故郷会津より派遣されて北海道の五稜郭で行方不明となった会津藩士、高津忠貴。
おなじく会津より派遣された夫に従い、三浦の地で亡くなった妻、橘孝子。
いま、冬の日にうららかな小春日和が広がる三浦三崎を見下ろす丘の上で、ひとりこの墓前にしゃがんで香華を手向け手を合わせるとき、失意のままに故郷から離れ、夫婦の間まで引き離されて異国の地で命を落とした二人の哀話が思い起こされ、歴史というものの無情さを思い起こさせるのである。