三浦半島をツーリングしていてよく通るのが、三浦半島南端をぐるりと周回するように走る県道215号線である。
この215号線の剱崎バス停の南の信号を入って海沿いに降りていくと、そこは道しるべもなく通る人も少ない細い農道となっていく。
この灯台の脇にあるレーダー施設がひときわ目立つので、そのレーダーを道しるべとして道に迷うこともなく進んでいくことが出来るのはありがたい事である。
この風光明媚な丘に映えるこのレーダー塔は、インターネット上では無粋であると酷評されていることも多いが、はるかに望む海原と房総半島、その自然的な美しい光景と対をなす無機質な白い鉄塔がひときわはえて美しく、みうけんは個人的には好きな風景である。
このレーダー施設と、剱崎灯台へと降りていく道の手前を脇道へそれていくと、その先は岩浜となっており、引いては返す潮騒がざわめくところで、他に歩くものは水鳥とフナ虫くらいものものであるが、この下り坂を下っていくその先に見えてくるのが鎮西八郎為朝にまつわる伝説を今に伝える、矢の根井戸と呼ばれるところなのである。
井戸と言っても、よくイメージされるような井桁の上に鶴瓶のやぐらが組まれているようなものではなく、ただコンクリートが敷かれたところに四角い石組が残されただけの簡素なもので、言われなければ通り過ぎてしまうような目立たないものである事に驚かされる。
その昔、鎌倉時代に源頼朝の叔父にあたる源為朝という武将がいた。
この源為朝は身長七尺(2.1メートル)もあったという弓の名人であり、しかも生まれつき右手が左手に比べて10センチ以上も長いことから、その弓を操る技にかけては右に出る者はいなかったという。
保元元年(1156年)、保元の乱に参戦した源為朝は、父の源為義とともに上皇方に味方して奮戦したが破れ、囚われの身となった。
父の源為義は手討ちにされたものの、源為朝はその武勇を惜しみ罪を減刑され、伊豆大島への流刑となったのである。
しかし、きのうの威とはうって変わった今日の悲運を嘆いた為朝は、大島から「我が弓勢昔に変わらずや」と鎌倉に向かって矢を放ち、うさ晴らしをしたと伝えられている。
その矢が誤ってここに落ち、その矢の立ったところから泉が湧き出て井戸となった。
これを矢の根井戸と呼ばれる由来なのだという。
往時は海に近いところであるにもかかわらず、清浄で冷たい真水がいくらでも湧き出たというが、現代では井戸から水をくむ人もいなくなり、固く閉ざされた蓋からはその中の様子をうかがい知る事もできない。
為朝の矢の根井戸の伝説は、鎌倉の六角の井戸などにも同じような伝説が残されており、いかに為朝が弓の名手として伝説になるほどの人物であったかが分かるであろう。
それにしても、伊豆大島から放った矢が、鎌倉市の材木座やここ三浦半島の先端まで届いてしまうとは。現代のミサイルでもあるまいに、為朝という人物の弓がどれほど強力だったのだろうかと思ってしまう。
為朝については鎌倉幕府ゆかりの源頼朝の縁者としていくつもの伝説を残しており、ここにも勇猛で弓の名手の誉れ高き為朝の偉勲が語り継がれていることを思うとき、このような伝説と民話の面白さを実感するのである。