鎌倉から逗子に向かう途中、右手の材木座海岸に和賀江島を望みながら海沿いの道を南下していくと、遠くには富士山を眺める秀麗明媚な光景が広がるが、交通量の多い国道の路傍に原付を停めては、こうして風景を楽しむことができるのも原付の醍醐味である。
国道を下り、海岸沿いの住宅地に挟まれた細い路地を入っていくと、住吉城址のすぐ脇にある井戸が六角の井戸と飛ばれ、鎌倉十井の一つに数えられている。
井戸の端にはずいぶん古そうな石票と、昭和47年(1972年)に建てられた比較的新しい石票が仲良く並んで立っており、ここが六角の井戸である事をわずかに伝えている。
しかし、この井戸は現在(平成31年4月)の時点でブルーシートに覆われており、ガムテープで「キケン」の文字が張られており、中を直接覗く事はできない。
地元の方に話を伺うと、この井戸にはもともと屋根があり、柵で安全に囲まれては柵の間から中を覗く事が出来ていたが、平成30年10月に来襲した超大型台風により柵もろとも吹き飛ばされたため、現在はこのような姿になってしまったのであるという。
ちょいと失礼して、隙間から手を差し込んでスマホで撮影してみたのがこちら。
光がブルーシートを通して入って来るので強烈な青色の写真になってしまい違和感があるので、白黒に変えてあるが、その石組みの井戸枠が八角に積まれているのがわかるだろうか。
六角の井戸といいながら、実際は八角の井戸である。
この井戸は、その名を「矢の根井戸」ともいう。
その昔、鎌倉時代に源頼朝の叔父にあたる源為朝という武将がいた。
この源為朝は身長七尺(2.1メートル)もあったという弓の名人であり、しかも生まれつき右手が左手に比べて10センチ以上も長いことから、その弓を操る技にかけては右に出る者はいなかったという。
保元元年(1156年)、保元の乱に参戦した源為朝は、父の源為義とともに上皇方に味方して奮戦したが破れ、囚われの身となった。
父の源為義は手討ちにされたものの、源為朝はその武勇を惜しみ罪を減刑され、伊豆大島への流刑となったのである。
ある日、同じく流されていた者たちへ自らの武を示さんと伊豆大島から鎌倉へ目がけて矢を放ったが、その矢は現在の六角の井戸の奥へ刺さったのだという。
村人たちは驚いてその矢を抜くと、ヤジリだけが底に残っていた。さらにこのヤジリを引き抜くと、驚くことに井戸はたちまち涸れてしまったので、ふたたびヤジリを井戸に投げ込んだところ元通り水をたたえる井戸になったので、矢の根井戸という愛称で呼ばれるようになったのだという。
この井戸も昭和の中ごろまではポンプが備え付けられて生活用水として大いに利用されていたが、水道が普及してからは井戸としての役目を終えるばかりか雑多なゴミが投げ込まれており、その由来も名井の名も台無しである。
しかし、近年まで毎年1月の井戸さらいの時には新しい竹筒に鉄のヤジリを入れ、その竹筒を井戸に入れてお供物などもあげてお祀りをしていたとの事である。
この井戸は真水に乏しく生きる事も大変だった時代、地元の村人が井戸を大切にするべく神聖な伝説を作ったものであろうか。
時は平成から令和に変わり、もはやこの井戸で喉を潤す人も着物を洗う人もなく、ただ時間の流れの中に語り継がれてきた井戸の存在とかすかなる伝説も、世代が交代していくにつれ忘れ去られようとしており、あらがう事のできない無情な時の流れに虚しさを覚えるのである。