みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

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為朝 の検索結果:

平氏と源氏 両方に従い戦った金子家忠の陣屋跡(横須賀市)

…方の源義朝に従って源為朝が守る白河の御殿を攻め、高間兄弟を一騎討ちで倒すなどの功績をあげています。 治承4年(1180年)には三浦一族の拠点である衣笠城を攻め落とすべく、平家方として畠山重忠などとともに参戦します。 全身に21本の矢を受けても、ものともせずに奮戦するそのさまは、源氏方の敵の大将であった三浦大介義明をも感嘆させたといいます。 しかし、結局は源氏の源頼朝に従い、源義経の平氏追討軍に属して平氏を滅ぼすのに大きな功績を上げました。 その褒章として、武蔵国金子・伊予国新…

疱瘡に苦しむ人たちがすがった 芋神様と芋観音(横浜市金沢区)

横浜市の磯子区から金沢区に入ったところ、金沢区富岡の里には富岡総合公園という大きな公園があり、いつも家族連れで賑わっています。この辺りはもともと古い街で、細く入り組んだ路地がその歴史を物語っています。 その住宅街の一角にあるのが、臨済宗建長寺派の富岡山 長昌寺(とみおかざん ちょうしょうじ)で、天正年間(1573年~1592年)に小田原北条氏の家臣であった柳下豊後守が亡き妻の菩提を弔うためにわざわざ建立されたという事で、長昌というのは亡き妻の法名からとっているのだそうです。 …

大蛇の怒りを鎮めた 磯の中に残された剱崎神社(三浦市)

…にも紹介した鎮西八郎為朝にまつわる伝説を今に伝える「矢の根井戸」と、その先には不思議な神話を残す「星見の池」と呼ばれるところなのである。 さて、この矢の根井戸と星見の池を越えていくと、海沿いの岩礁の中に突きあがった、まん丸の大きな岩山がある。 現在ではこの岩山までは歩いていけるが、関東大震災で隆起するまでは陸続きではなく、大蛇が住んでいる離れ小島であるとして恐れられ、近づこうとする者はいなかったと言われている。 現在は特に案内看板も由来書も設置されてはいないが、この小山のふも…

かつては神域と恐れられた 剱崎の星見の池(三浦市)

…えてくるのが鎮西八郎為朝にまつわる伝説を今に伝える、矢の根井戸と呼ばれるところなのである。 この矢の根井戸は別記事で紹介したとおりであるが、この直下の平たいところは昔「星見の池」と呼ばれていた所であった。 現在は特に案内看板も由来書も設置されてはいないが、かつてここの「星見の池」は、神域として神聖な場所であり、神様が魚を惜しんだということから「惜しみの池」と呼ばれたのが語源であり、それが転化して「星見の池」となったと伝わっているのである。 というのも、ここは大正12年の関東大…

伊豆大島から放った矢が落ちた 三浦半島南端の矢の根井戸(三浦市)

…えてくるのが鎮西八郎為朝にまつわる伝説を今に伝える、矢の根井戸と呼ばれるところなのである。 井戸と言っても、よくイメージされるような井桁の上に鶴瓶のやぐらが組まれているようなものではなく、ただコンクリートが敷かれたところに四角い石組が残されただけの簡素なもので、言われなければ通り過ぎてしまうような目立たないものである事に驚かされる。 その昔、鎌倉時代に源頼朝の叔父にあたる源為朝という武将がいた。 この源為朝は身長七尺(2.1メートル)もあったという弓の名人であり、しかも生まれ…

人里離れた源為朝の隠れ里(横浜市港南区)

…郎とも呼ばれていた源為朝の事であり、保元の乱で父ととも崇徳上皇に味方して奮戦したものの敗走して落人となって、この谷戸の奥深くに隠れ住んだという伝説がある。 ここには「為朝の祠」と呼ばれる小さな目立たない祠があり、今でも毎年4月25日になると近隣の住民による供養祭が執り行われているという。 さらに近くのふもとには為朝の妻の墓といわれている笠石が祀られているのだという。この笠石は現在の上大岡東一丁目七番の墓地にあったと史料にはあったのだが、いまこの場所には墓地らしきものはなく、す…

航海安全と病平癒を願った 勇猛豪傑の為朝神社(横須賀市)

… この神社はその名も為朝神社といって、その名の通り御祭神は鎌倉幕府設立で有名な源頼朝の叔父の源為朝である。 源為朝については過去にも紹介しているように、弓の名手にして怪力無双の豪傑であり、三浦半島のみならず各地のさまざまな伝説が残されている。 www.miuken.net この為朝神社は古来より航海安全の守り神として信仰されているほか、新編相模風土記稿を見れば疱瘡神としても信仰されていたと記載されている。 これは、源為朝がだれよりも強い豪傑であると称賛された歴史から、また伊豆…

伊豆大島から鎌倉まで飛んだ 弓矢の伝説を伝える六角の井戸(鎌倉市)

…頼朝の叔父にあたる源為朝という武将がいた。 この源為朝は身長七尺(2.1メートル)もあったという弓の名人であり、しかも生まれつき右手が左手に比べて10センチ以上も長いことから、その弓を操る技にかけては右に出る者はいなかったという。 保元元年(1156年)、保元の乱に参戦した源為朝は、父の源為義とともに上皇方に味方して奮戦したが破れ、囚われの身となった。 父の源為義は手討ちにされたものの、源為朝はその武勇を惜しみ罪を減刑され、伊豆大島への流刑となったのである。 ある日、同じく流…

 

 

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