神奈川県の西端にある真鶴半島は、秀麗富士や箱根を望む相模灘に突き出した小さな半島で、自然は豊かに潮風も薫る風光明媚なところであるが、その付け根の真鶴漁港の脇に小さな赤い橋がかかっているのが見てとれ、これこそが源頼朝を守った「しとどの窟」と言われているところである。
これは元々は、海が作り出した自然の海食洞であった。
現在は綺麗な紅い橋がかけられ、その奥にはお堂まであるが、これは後世になって観光地とするべく付け加えたものであろう。
治承4年(1180年)、石橋山の合戦で平家に敗れた源頼朝は、箱根山中を彷徨いながら湯河原の「しとどの窟」を経て、最後はここ真鶴のしとどの窟に身を隠したという。
しとどの窟の語源は、源頼朝が身を隠していた際に、迫り来た追手が窟を覗き込んださい、シトトと呼ばれるホオジロの一種が飛び出してきたため、鳥が住むならば人も居なかろう、と追手が立ち去り、頼朝は難を逃がれられたからこの名前が付いていると言われているのである。
この窟は、頼朝が隠れたころは130メートルもの奥行きがあったと伝わっているが、風に削られ波に洗われ、幕末には幅3m、奥行11mほどの大きさとなっており、当時の窟は海に面していたものの、大正時代の関東大震災によって地殻が大きく隆起し、現在の高さになったのだという。
さらに、第二次大戦中には三浦半島を要塞化すべく、多くの石材が切り出されたために姿形は大きく変わって、現在の姿になったのだという。
真鶴に古くからある名字に「青木」「五味」「御守」というものがあるが、これらは源頼朝がしとどの窟に隠れたのを助けた人たちで、木の枝で窟を隠した者には「青木」を、食事の差し入れをしたものには、五つの味を合わせた「五味」、追手から頼朝を守った者には「御守」の名字が下賜されて、その子孫たちは今でも真鶴半島に多く住んでおり、特に青木姓の家は多い。
また、このあたりには謡坂(うたいざか)と呼ばれる坂が残っている。
見た感じは普通に坂道であるが、源頼朝が石橋山の戦いに敗れて逃避行を続けるなか、この地まで来れば追手はしばらく来ないであろうという思いから家臣の土肥実平らと歌い、舞った場所であるという伝説が残っている。
逃避行の最中に歌い舞うか・・と少しマユツバな思いもあるが、正確、正確、史実、史実とこだわらないのが「民話と伝説」のよいところ。
この地には今なお石碑「謡坂之記」が残されており、この石碑は近くに別荘を構えた高井徳造氏が昭和9年1月に建立したというもので、この石碑だけがわずかに伝説を語り継いでいるかのようである。
そして、逃避行を続ける源頼朝は、岩海岸に到達した。
岩というのは、このあたりの地名であるが、いかにも岩場だらけの真鶴らしい質実剛健とした地名であろう。
この浜の片隅には、「源頼朝開帆碑」が建てられている。
治承4年(1180年)、石橋山の合戦に敗れた源頼朝らが、この地からわずかな伴を連れて舟に乗り込んで出港した。
その後、頼朝は無事に房州(現在の千葉県)に逃亡する事ができ、房州で多くの友軍を味方に引き入れるとたちまち大軍となって、鎌倉に入ることとなった。
その後、平家を打倒した源頼朝は、晴れて鎌倉幕府を創設するに至るのである。
いま、この砂浜は訪れる人もなく、ここがそのような歴史の一舞台となったとはにわかに信じがたいものがあるのだが、まぎれもなく源頼朝は新たなる誓いと希望を胸に、この地から小さな舟に身をゆだねて、荒波かきわける船出の旅に出発したのであろう。
いま、岩海岸の砂浜は昔と変わらぬ面影を見せながらも、すぐ近くには真鶴道路の近代的な橋脚がかけられて、ここにも時代の移り変わりというものが感じられる。
今から840年の昔、ここを出港した源頼朝は、どこまでも続く相模灘の波濤に何を思ったのだろう。
ひとり、この砂浜で寄せては返す波しぶきをただ見つめて、頼朝が生きた時代に思いを馳せたのである。