横浜市南区睦町というところの住宅街の中に、高野山真言宗の寺院である「青竜山 宝金剛院 寶生寺」(せいりゅうさん ほうこんごういん ほうしょうじ)という古刹があります。
都会の住宅街の中にありながら広大な寺林を背後に控え、関東大震災にも横浜大空襲にも遭わずして済んだお寺であるせいか、その趣は古刹にふさわしい質実剛健としたたたずまいです。
このお寺の歴史はとても古く、平安時代後期の承安年間(1171年~1175年)に覚清上人が庵を結んだのが起源とされており、御本尊様は戦国時代も終わりを告げようとする慶長6年(1601年)に鎌倉の覚園寺から移された大日如来の坐像といいます。
江戸時代には本山として近隣52寺を配下に収めるお寺として隆盛を極め、鐘楼、山門、客殿、長屋門、弁天堂、経蔵など多くの塔頭が建設され、訪れる信者も多くたいへんな賑わいであったといいますが、明治期には平楽町の増徳院に本山の格を移してからというもの、次第に建物は失われて現在の姿になったという事です。
さて、この寶生寺の本堂の前には、すっかり枯れて草に埋もれてしまった池の跡が残されています。
この池は昔はもっと大きかったそうですが、今となっては窪地に草が生えているだけの場所となってしまって、よく見なければ池であることすら分かりません。
ただ、伝説の池がこの池だったのか、近くの「睦町さくら公園」のところにあった大池だったのかははっきりしていませんが、地域資料の中には「寶生寺の竜の伝説」というものが残されています。
それによれば、寶生寺の池にはたいへん立派な竜が住んでいました。
その竜は夜になっては池から出てきて、寺の境内にあったという千年松という松の大木に登っては海を眺めていたといいます。
ある時、竜はふと自分の姿が気になって、松の上に登ったまま灯りをかかげ、自らの姿を海に写して楽しんでいました。
その姿は竜が自分で見てもすばらしく立派なもので、まるで今にも天空高く舞い上がるかのようです。
自らの姿にすっかり満足した竜は、ふたたび池へと帰っていったのです。
そんなある日、うとうとと昼寝をしていた竜の耳に、「寺を建てて多くの人を救いたい。竜神よ、加護を与えよ」と祈祷する念仏行者の声が聞こえてきました。
いつまでも続く熱心な祈りの声に心打たれた竜は、一心不乱に祈っていた行者男の前に姿を現し、その願い叶えようと約束をしたのです。
行者は突然のことにびっくり仰天しましたが、その竜のあまりの立派さにたいへん喜んで、それから熱心に寺作りに励み、この「青竜山 寶生寺」を中心として、竜の姿を象るようにして多くの寺が建立されました。
すなわち、竜の頭が滝頭町の「竜頭山 密蔵院」。
宝珠を握っている右手が岡村の「泉谷山 竜珠院」。
尾の部分が元町の「海竜山 増徳院」といった具合です。
蒔田の「南竜山 無量寺」も関係があると思われます。
これらの寺のほとんどが真言宗で、江戸期まではどれも寶生寺の末寺だったそうですからあながち偶然ではないでしょう。
その後、みなと横浜が開港すると、「むかし おもえば とまやのけむり ちらりほらりとたてりしところ」とまで歌われる寒村だった横浜の街はみるみるうちに発展していきました。
やがて、竜の首を断ち切るように堀割川が出来ると竜は姿を消してしまい、そればかりか立派だった千年松も、竜がいなくなってからは元気がなくなってしまい、昭和の初めごろには枯れてしまったという事です。
いま、この境内には竜の伝説を伝えるものはなく、わずかに地域資料に載っている昔話に頼るしかありません。
しかし、の宝生寺からは竜はいなくなってしまっても、今もきっとどこかで人々の暮らしぶりを眺め、今日もどこかの木の上から自らの姿を水面に写して眺めているのかもしれません。
時代は流れ、平成から令和となったいま、コロナ禍であえぐ世界を竜はどのような心境で見守っていることでしょうか。
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