相鉄線のかしわ台駅とさがみの駅の中間のところ、柏ケ谷中学校の東側の住宅街の中に里墓の地をひかえた真紅の稲荷社があります。
よく手入れされて真新しい社殿は真っ赤にかがやき、その脇の植え込みも綺麗に刈り込まれていて大切にされているのが伺えますが、これが戦国大名武田家とその家臣団にゆかりがある「八軒庭稲荷」だという事を、最近になって知りました。
もともと稲荷大明神というものは、稲荷大明神やお稲荷さんなどと呼ばれて江戸時代には大いに親しまれ、「街を歩けば右に犬ころ、左にキツネ、前になっとや(納豆売り)、二本差し」などと唄われるほどたくさん祀られた、日本人にはとても馴染みのある神様です。
日本神道で食をつかさどる女神「宇迦之御魂神」(ウカノミタマ)と、中国から伝わってきた一般に白狐に乗る天女「荼枳尼」(ダキニ)が習合したもので、古くから農耕の神様、稲と食物の神様として信仰されてきたものだそうです。
次第に農家や商家で屋敷神として敷地に祀られるようになり、五穀豊穣から家を守る神様としても信仰が広がり、現在の姿になっています。
さて、この八軒庭稲荷の由来はふるく、戦国時代の昔にまでさかのぼります。
天正10年(1582年)、この年は織田信長が武田勝頼を攻め滅ぼし、そのわずか2カ月余り後には本能寺の変に織田信長が斃れ、安土城は全焼してしまう激動の年でありました。
このとき、武田勝頼に味方していたのが本庄氏といわれる一族でした。
武田勝頼が天目山の戦いで敗れ、織田方の執拗な残党狩り、百姓たちの無慈悲な落ち武者狩りから逃れてきた武田方の本庄氏の一族、8名がこのまで逃れて来たそうです。
この8名は、ここに8軒の家をそれぞれ建てて集落をつくりました。
「八軒庭」という地名はここからきたもので、この八軒庭稲荷はこの集落の守り神として、翌年に建立されたものであるといいます。
その後、本庄の一族は大矢という名に変えて、この地で八軒庭稲荷を守り続け、元禄13年(1700年)に社殿を再建し、その後も改修や改築を重ねて現在の八軒庭稲荷となったという事です。
それから時代は流れて平和な時が訪れ、当時8軒だった家も子孫を増やして繁栄し、住宅地図を見るとこのあたりでは多い苗字となっているのが分かるほどです。
いま、この真紅の真新しい社殿の前に立ち、静かに柏手を打って祈りを捧げるとき、かつて名族の流れを汲みながら流れ流れ、その末に新しい暮らしを始めた8軒の家々の苦労が偲ばれ、ここにも昔の人々の懸命な暮らしに思いを馳せたのです。
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