かつて入江だったところを埋め立てた吉田新田の一帯から南側は山手と称される丘陵地帯であり、その高低差ははっきりとしており、ひとたび山上に立てば眼下にかつて横浜の中心であった伊勢佐木町界隈や桜木町、遠くにはみなとみらいの街並みまで見渡すことが出来る。
そんな丘陵の上ですらあまねく住宅地となっているが、横浜橋商店街から中村川を渡り、羊坂と呼ばれる急坂を登りきった左手に、お地蔵様を従えた「赤塚」の石碑を見ることができるのである。
この片隅には「赤塚由来」という石碑が建立されており、その内容を抜粋する。
鎌倉時代、現在の南区・中区・磯子区を治めていた平子広長という武将の一族がいた。
いつの頃からか、ここには塚があり平子一族の塚と口伝され、この辺りの地主の屋号も「赤塚」という屋号だったという。
時代は下り昭和54年(1979年)、この地を所有者する事となった岩澤氏が碑を建立して供養したのだという。
現在、図書館を巡っても南区史などを紐解いても、赤塚に関する詳細な情報は出てこない。
おそらく個人所有かつ個人管理の塚であり、行政も教育委員会も関与していないのであろうか。
平子一族に関しては、もとは三浦一族の傍流とも横山党の傍流ともされ、現在の磯子区にある真照寺あたりを拠点として館を構えていたとされる。
その支配地域は現在の横浜市東南部一帯にわたり、磯子あたりの禅馬郷を嫡子流が直轄統治し、その他の庶子は本牧台地を支配したとされている。
後北条氏が台頭してくると平子一族は追いやられるように越後に退き、その後にこの近隣を治めたのが吉良氏である。
吉良氏は蒔田の現・英和女学校あたりに蒔田城を築き、後の忠臣蔵にて一方的に悪役にされてしまう吉良上野介の祖先でもある。
このような経緯を振り返るとき、磯子に本拠を構えた平子氏がこの地に塚を築いたかどうか。
現在はこの地にあったという塚は見当たらず、おそらく住宅地造成により削られてしまったか。
どちらにしても貴重な遺構であったろう塚が失われたいま、平子氏の塚の真偽は分からぬが、この辺りでは古くからそのように伝えられてきたということである。
現在、赤塚の石碑の脇には比較的新しい地蔵菩薩が、その由来も明らかならぬままに静かに手を合わせ、道行く人や車の群れを見守っているのである。
いま、この赤塚の前で地蔵菩薩に向かい合っては静かに手を合わせるとき、かつてこの地を闊歩した武将たちの鬨の声や旗の波、馬のいななきが蘇ってくるようであり、それでも時代の流れに飲み込まれて人知れず忘れられていく彼らの嘆きも聞こえるようである。
このような時流の流れの中に、かつての平子一族を忘れさせまいと私財を投じて塚を守り続けている岩澤氏と関係者の方々に、心を込めた拍手を送りたいものである。