京浜急行の追浜駅から駅前の国道16号を下り、踏切を渡った小谷戸のあたりは俗に「ごじんや」と呼ばれて、江戸時代に「浦郷陣屋」があった所であると伝えられている。
この辺りは昭和の初めには3,4軒の民家があるだけで、あとは田畑が広がるのどかな風景であったが、駅から近いという立地もあって今ではすっかり宅地化の波に飲み込まれてしまったかのようである。
史料によると、陣屋は「構内一町五反許(ばかり)」(約15000平方メートル)の広さを誇り、もともと小田原北条氏のころ、このあたりの領主であった朝倉氏が住んでいた所であった。
時は流れて天下泰平の江戸時代となると、寛文4年(1664年)に上州前橋藩の酒井雅楽頭(うたのかみ)忠清の領地となって以来、武州川越藩・奥州会津藩・肥後熊本藩・下総佐倉藩が代々ここに陣屋を構え、その権勢は江戸時代末期の慶応3年(1867年)まで続いたという。
これらの大名たちは三浦郡内のほかの村の政治もここで扱っていたため、領民たちはこここを浦郷御役所と呼んでいたという。
この浦郷陣屋のありさまは、正面の長屋門に沿って外郭を土塁で囲み、松並木を周囲に植えて構内には長屋が横に並ぶという実に豪壮なもので、ほかにもある陣屋の中でも三浦半島の中でももっとも古いものとされていた。
平時は近隣の政治全般を、激動の時代となる幕末には江戸湾防備の重要な拠点として、大津陣屋・鴨居陣屋・上宮田陣屋などとともにその役割を果たしたのであろう。
現在では住宅が立ち並んでその面影は全くない。
わずかに、陣屋の倉庫の跡と伝えられるところに御倉山という地名が残るくらいで、誰かに「ここにはかつて陣屋があった」と言われてもにわかに信じがたいほどに風景は様変わりしているのである。
ほかに、往時の痕跡を今にとどめるものと言えば、ここよりいくばくか南に下ったところにある首切観音であろうか。
ここは処刑場のあとともいわれ、幕末の浦郷代官であった平田治左衛門以忠(よりただ)の子孫が受刑者の霊を慰めるため建立したと言われている。
天保年間(1830年~1843年)のころ、全国的に干ばつが発生し、それにより大飢饉が頻繁に発生していた。
この厳しい生活に冷害も加わり、凶作が続いて民衆の不満は募り、百姓一揆や打ち壊しなどの事件が頻発するや治安は悪化する一方で無頼浪人や盗賊などのならずものも多く流入したという。
この惨状は浦郷村も同じで、犯罪が横行すると多くの罪人が捕えられ、彼らは浦郷陣屋で裁かれて処刑されたといい、付近の民家には「首洗いの井戸」なる井戸も残されているのであるという(非公開)。
大正末期、現在の国道16号である国道31号線の工事の際、胴体から切り離された頭がい骨ばかりが10数個も発見されて大騒ぎとなったが、これが江戸時代の物であることがわかると、前述の浦郷代官であった平田治左衛門以忠(よりただ)の子孫が受刑者の霊を慰めるため建立したと言われている。
石塔は3基あるが、そのうち中央の首切観音は昭和3年に建立されたものである。
向かって右の石塔は南無妙法蓮華経の石塔、左は南無阿弥陀仏の石塔であり、ともに江戸時代に建立されたもののようである。
現在も、この首切観音は地域の方々によって大切に守られており、毎年9月のお彼岸には南町協力会により供養が行われているのだという。
いま、かつてここに陣屋があり、見渡す限りの土塁には松並木が茂り、多くの武士が二本差しにして闊歩していたなどとは想像もできず、ましてやここが悲惨な処刑場となり多くの首が晒された場所であったなどとは、到底想像も出来ない事である。
しかし、ここを生きてきた人たちが体験していた悲惨な大飢饉と、それに従って暗躍する盗賊たちの姿、そしてこの地で多くの罪人が処刑され刑場の露と消えていったであろう事を思い起こすとき、ここにも運命に抗うことのできない人間の弱さと、時の流れのはかなさをしみじみと思い出すのである。