三浦半島の先端に、宮川町というところがあります。
平坦な場所で三崎をのぞむ高台にあり、すぐ先は八景原の断崖となって、三崎の遊女屋から逃げ出した遊女が海に身を躍らせた悲しい場所として紹介させていただいた事もあります。
もともと、この宮川のあたりは寒村でしたが三崎の発展とともに街道が形成され、多くの牛馬が荷車を引きながら行き交ったのかもしれません。
わずかにその面影を残すものが、今なお八景原の断崖の上に残されているのです。
県道215号線の通り沿いに面していながら、本当によく注意していなければ通り過ぎてしまうような目立たない入り口があり、その奥には数多くの馬頭観音の石碑に混ざって牛頭観音の石塔が残されています。
その多くは明治時代前期のもので、ちょうど三崎の港が大いに栄えたころですから、その荷を運ぶために使役された牛馬を供養するために作られたものだろうか、と想像できます。
このような動物供養の石塔は、今まで見てきた中では大部分が馬頭観音です。
しかし、当時の日本では牛も一定数おり、農耕や運送などには欠かせない存在でした。
特に、三崎から宮川へと登るような長い登り坂で荷を運ぶには、歩く速さは遅くても疲れ知らずで力も強い牛の助けが欠かせなかったといいます。
ここに残された石塔をよく見ても、そのほとんどが牛頭観音です。
これは宮川あたりでいかに多くの牛が飼われていたかを如実に表すものだと思います。
中には牛頭観音ではなく、「牛頭之墓」と陰刻されたものもありました。
「牛之墓」ではなく、「牛頭之墓」です。これは大正期のものですが、過去に紹介した「豚頭観音」なみに珍しいものだと思います。
現在、この場所は地元の方々によって愛犬の墓地ともされているようです。
牛頭観音が並ぶ背後には、木やプラスチックで作られた愛犬のものと思われるお墓が並んでいました。
この中は注意して歩かないと、どこにお墓があるのかわからないので、うっかり踏んでしまわないように神経を使います。
ここには、このような馬頭観音や牛頭観音などが15基前後並んでいます。
「前後」としたのは、どうやら土に埋れてしまって一部分だけ顔をのぞかせているものもあるようなのです。
一見して誰からも忘れ去られてしまったような寂しいところに並ぶ石塔たちですが、誰かが時折手入れをしているのでしょう、雑草も生えていないばかりかペットボトルがお供えされているのが目に入りました。
いま、この牛頭観音が並ぶ八景原の地から、遠くに望む宮川の里を眺めるとき、かつてこの道を大八車を引いた牛たちが物も言わずにゆっくり、ゆっくりと泥道を登って行った姿が目に浮かぶようで、ここにも時の流れのはかなさをそくそくと感じるのです。