箱根の小涌谷から芦ノ湖に続く国道1号線は、平日であれば通る車もさほど多くはなく、二子山の麓から眺める箱根の山々は初夏の彩りも美しく、まことツーリングには最適の時季である。
国道一号線は最近になって新しく造成された新道であるが、その脇に今も残る精進ヶ池の周囲には数多くの石仏が残されて、この池に沿った獣道がかつての旧道であったのであろう事を今に示しているかのようである。
そんな獣道を、藪こぎをしながら歩いていくと突如として開けたところに高さ3メートルを超えようという大きな宝篋印塔が今なお残されているのが見えてくる。
この巨大な宝篋印塔は、永仁4年(1296年)、鎌倉時代の銘文が残されている大変古いものである。
その4年後にはる正安2年(1300年)には忍性とも呼ばれる良観上人によって供養が行われた、と言う記録が残り、建造年代が判明する宝篋印塔としては関東で最古のものであるという。
この宝篋印塔は江戸期にはすでに多田満仲(源満仲)の墓と呼ばれていた記録があるが、多田満仲は現在でいう兵庫県の武将であり、その遺骸も現在の多田神社と呼ばれる兵庫県の多田院に葬られた。
にも拘らず、このように遠く離れた箱根の山奥で、しかも多田満仲の没後300年たった鎌倉時代に建てられた宝篋印塔が、なぜ多田満仲の墓と呼ばれるようになったのかは詳しくは分かっていないのだという。
ただ、多田満仲の子である多田頼光は箱根の伝説で有名な坂田金時(金太郎)の主人であるし、また多田頼信はその系譜を源頼朝までつなげていることから、それにあやかったものであろうかと推測されているのである。
これは今から700年余り前の鎌倉時代に大和の国の石工、大蔵安氏によって作られた宝篋印塔であるとされているが、細部をじっくりと見れば、その緻密さと精巧な技術には実に目を見張るものがある。
この、山の木々の間に埋もれるようにしてひっそりと立っている宝篋印塔が、どのような思いで刻まれ、どのような由来でここに建立されたのであろうか。
その記録もあいまいで推測や口伝の域を出ないものばかりであるが、ただ一つ言える事は、この宝篋印塔は我々が生まれるずっと昔から人々の往来を見守り、あるときは道しるべとして、ある時は旅の心のより所として、長い間ここにあって人々の営みを見守り続けてきたという事のみなのである。