みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

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遠い昔の哀しき思い出 瀬谷の牢場坂(瀬谷区)

横浜の瀬谷区を南北に縦断する海軍道路から西側へそれ、上瀬谷小学校をすぎてしばらくいくと、急な下り坂に差し掛かります。

一見するとどこにでもあるような、なんの変哲もない坂道ですが、この道は地元の間では「牢場坂」と呼ばれています。

  

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この牢場坂は、室町時代の宝徳年間(1449年~1451年)ごろ、小田原北条氏の家臣であった藤原朝臣山田伊賀入道経光(以下、山田経光)が深見城を築く際に設けたものとされています。

 

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山田経光はもともと相模国伊勢原にあった「糟屋館」を本拠としていた扇谷上杉家上杉定正の家臣でしたが、のちに北条氏の家臣となって現在の瀬谷地区と大和地区を治めたとされています(諸説あり)。

 

山田経光の館は瀬谷の中屋敷にあったそうですが、有事の際の拠点として深見城を築城したとされています。

 

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この「牢場坂」は戦国時代が終わり、深見城が廃城となってからも地名として残り続けました。

実際の牢場坂は、この坂からそれていく竹林の中の古道で、昔ながらの雰囲気を今もとどめ、その頃の物と言われる五輪塔や板碑が今もひっそりと残されています。

 

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また、この北がわには「馬場屋敷」、南がわには「中屋敷」の地名が今も残されており、地名の中に遥か遠いむかしの日々を思い起こすことができます。

 

五輪塔というものは、もともとは地位のあるものの墓石として建てられることが多く、現在でも鎌倉を中心とした神奈川県内には数えきれないほどの五輪塔が残されています。

その脇に、仏の加護を祈る板碑が残されていますが、一見して自然石にも見えてしまいそうな小さな板碑にはわずかに陰刻の跡が残り、はるかに長い時の流れを今なお物語っているかのようです。

 

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竹林の向こうから聞こえてくる自動車の音を耳に受けながら、こすれる竹の梢が通す陽光を背景として、そっとこの小さな五輪塔群に手を合わせているとき、腕をしばられ首をうなだれた囚われの人々が、とぼとぼとこの坂を引かれていった遠い昔日を思い起こすようで、ここにも人の命のはかなさをそくそくと思い起こしたのです。

 

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