相鉄線のかしわ台駅の北側に、住宅街の中としては珍しいほど澄んだ水をたたえる目久尻川という川が流れています。
「座間市の目久尻川」なのですが、そこにかかる橋の中に、その名も「寒川橋」という橋があり、その橋の北側の隅に五輪塔の残欠を積み重ねた石塔が3基仲良く並んでいるのを見ることができます。
五輪塔というのは鎌倉時代から室町時代、江戸時代の初期頃まで神奈川県内で多く作られた墓石の一形態で、現在でも神奈川県の鎌倉や県央地域を中心に横浜市内、三浦半島、県西部などで多く見ることができ、箱根の「曽我兄弟の墓」のように立派なものもあれば、今まさに土の中に埋もれていこうとしているものなど、実に様々です。
みうけんは今まで、このような伝説と歴史を巡る原付ツーリングを始めてから、実に数え切れないほどの五輪塔を目にしてきました。
中には漬物石になってしまったり花壇の中に飾られてしまったり階段の一部になってしまったりしたものも見ましたが、このような多重の形になってしまった五輪塔は初めてです。
五輪塔は一つの石を削り出して作ったものもありますが、多くの五輪塔はいくつかの部品を重ね合わせただけなので、すぐにバラバラになってしまいます。
この五輪塔もどこからか持ち込まれたものか、川の氾濫に乗って流れてきたか、それとも元々あった五輪塔のうち使いやすい丸型や角形の石だけが持ち去られ、火輪(かりん)と呼ばれる笠の部分だけが残ったものか。
どうしてこういう形になったのか、詳しい資料は残されてはいませんでした。
こういうバラバラになってしまった五輪塔は、先ほども書いたように別の用途に転用されることもありましたが、道祖神として祀られることも珍しくなく、畑の境界石として使われることもありました。
この多重の道祖神も、もともとはもう少し南側にありましたが寄せてくる宅地化の波には抗えず、昭和の初めにはもう少し北側の場所に移動させられ、「道祖神」と彫った石塔を新しく作って一緒にお祀りされたそうです。
しかし、この頃から近隣では原因不明の病に苦しむ人が増えたために、これは道祖神のタタリであるに違いないと噂が立ち、やがては元の位置に戻されます。
その後、昭和のはじめに建てた石塔の方が割れてしまったために、昭和59年(1984年)に新しく作り直して、元々あった石塔に並べるようにして建立されたという事です。
お墓や石仏を勝手に移動してタタリが起こる、という話は珍しいものではなく、バブルの頃のオカルトブームでは、そのような話がテレビで連日のように特集が組まれたほどでした。
縁あってそこにあったものですから、後世の人間の都合で勝手に移動するのも良くないのでしょう。
この道祖神をぐるりと見まわしてみると、台座の一部に凹みがあるのに気が付きました。
もしかしたら、この台座の石積みは、むかしどこかの家の壁だったのではないでしょうか。高さといい大きさといい、この凹みは昔ながらの表札をはめ込むのにピッタリな大きさです。
この道祖神が立っている目の前は、目久尻川の清流が流れています。
おせじ抜きに水は澄んで小さな魚が群がり、アオサギが降りてきては冷たい水の中をまさぐっていました。
その水の澄みようは、早い流れでさざ波を打つ水面からも川底の小石がひとつひとつ数えられるほどです。
いま、この不思議な形の道祖神は立派な台座を与えられて、転変の運命をたどりながらも元の場所に仲良くおさまり、真新しい花立てまで与えられて里人たちの生活に溶け込んでいます。
この道祖神は物言う事もなく、昨日も今日も明日も、まさに数百年に渡ってこの地にあり続け、人々の営みと目の前の目久尻川に集う鳥たちを見守っているのです。