JR磯子駅のあたりから横須賀街道を北上すると、掘割川にかかる八幡橋の手前で二手に分かれます。
そのまま左折して横須賀街道を北上すると地下鉄吉野町の駅へ、また直進して八幡橋を渡ると根岸方面です。
この八幡橋のたもとにある八幡橋八幡神社は「やはたばしはちまんじんじゃ」といって、欽明天皇12年(551年)には既にこの地に祀られていたという歴史の古い神社です。
時代は下り江戸時代の明和3年(1766年)には八幡宮、三島明神、氷川明神が合祀され、さらに10年後の安永5年(1776年)には地頭であった小浜志摩守により東照宮を勧請して相殿とされ、現在のようになったとされています。
そのため、ご祭神に徳川家康公が並んでいるのが面白いところです。
江戸時代から明治時代に入ってからは地区での信仰はますますさかんとなり、大正12年の関東大震災での全壊の際も瞬く間に復興され、社殿のみならず玉垣や鳥居、神楽殿、社務所、獅子、灯籠、手水屋、神輿庫などがすっかり新調されて現在の姿に至るのだといいます。
まずは御神前にて二礼、二拍手、一礼。
コロナ禍が早く収まりますようにとお願いし、頭上を見上げるとその彫刻の立派なこと。
このような決して有名でも観光名所でもない普通の神社にも、昔の職人たちの巧みな技が活かされ、今に受け継がれている事に感動を禁じえません。
さて、この八幡橋八幡神社のもう一つの見どころは、社殿の向かって左手に飾られた大きな機雷?のような鉄球でしょう。
この鉄球は掘割川沿いの道路からもよく見えるので、ずっと気になっていました。
八幡橋八幡神社の公式サイトには、「御大典記念碑 昭和天皇御即位を祝って昭和5年に建てられた」と、あまりにも簡潔に紹介されています。
さて、上記の文章で「機雷」と断言せずに「機雷?」と?マークを付けたのには理由があります。
この丸い球体は機雷である、という確証はないのだそうです。
社務所で伺ったところ、海に浮かべておくブイであるという可能性も捨てきれないとのこと。
100年近く前に寄進されたものなので、正直のところよく分からないというのが答えだそうです。
実は、神社に機雷が奉納されるという事はなくはないのです。
特に、明治時代の日露戦争で鹵獲したロシア軍の機雷などが神社に奉納される例はままあり、過去には横須賀の走水神社に奉納された機雷を紹介した事があります。
他にも小田原市内の神社には機雷ならぬ魚雷が飾られている例を見ることができます。
ただ、言われてみると確かにこの球体は今まで見た機雷とも少し違うような気がします。
機雷にしては、やけに鉄板が薄くて華奢な印象を受けるのです。
だからといってこれがブイであるという確証もなく、「はまれぽ」を見ると絹織物の洗濯機という話もあります。
台座は溶岩を固めて築かれたもので、その前面には「御大典記念」の文字。
揮毫は有吉忠一第10代横浜市長によるものです。
裏に回ると寄進者の名簿が飾られていました。
一部の文字は判読しづらくなっているものの、名前の上に描かれた野球かテニスのボールが印象的でした。
きっと、地元のスポーツクラブかなにかでお金をとりまとめて寄付をしたのでしょうか。
由来も、その正体もよく分からない鉄の球体。
写真を撮っていたら、たまたま犬を散歩させていた地元の方から「それはねぇ、昔の中国の機雷だよ」という機雷説をいただきました。
やはり、機雷という見方をする人は一定数いるようです。
この日、とても天気が良い秋晴れの中、さんさんと降り注ぐ太陽が球体の穴に差し込み、中を照らしたかと思うと別の穴から漏れ出す不思議な光景を見せてくれていました。
この球体はいったいいつ、だれが、何の目的で作ったか全くわからないものの、大東亜戦争の空襲にも金属供出の被害も受けず、また海の近くであるにもかかわらず海風での腐食もよく防いで、もう100年近くもこの地にあり続け、今日も悠遠なる歴史の果てから、日々の生活を営む人々を見守っているのです。