小田原市の、県道72号線の上を小田原厚木道路のガードが跨ぐところがあります。
そのガードをよく見ると橋脚の隙間に細い農道が伸びているのが見て取れますが、特に注意していなければ通り過ぎてしまうような細い道です。
この道は特に立ち入り禁止の看板があるわけでもなく、軽トラが通れるようにそれなりに舗装されているので、失礼して原付でグイグイと登らせていただきました。
途中、開けたところがあって実に眺めが良いですね。
小田原はミカンが名産です。
海沿いの丘陵地帯に広がるミカン畑で、たっぷりとした日差しを浴びて大きくなったミカンは実に甘く、汁気も多くて大変おいしいものです。
みうけんも、一時期は車を飛ばしてわざわざミカンを買いに国府津まで来たものです。
三浦半島のキャベツ畑に広がる農道もそうですが、こういった道は一般の人が普通の車で通ることを想定していません。
場所によっては木々に囲まれてうっそうとし、当然のように落ち葉がたくさん積もり、さらに泥で路面が覆われているところもあります。
見ての通りガードレールなどはないので、万が一スリップしたら命取りな所が多いので、運転には細心の注意が必要です。
対処法はただ一つ。
ただ徐行。ひたすら徐行。そして危険予知。
これのみです。
2輪の原付の場合、泥が積もってぬかるみになった所では、徐行で走っていても横滑りをします。
そのような所は、いっそのことエンジンを切って押し歩きするのが賢明かもしれません。この時にエンジンを切らずに押して歩くと、もし横滑りなどして手に力が入った時に原付がウィリーして踊ってしまう危険性があるかもしれません。
このような農道の多くは、やっと軽トラが通れるかという程度のもので、決して物見遊山や興味本位で四輪車で行くようなところではありません。
うかうかしていると脱輪、転落という事も充分にありえます。
しかも携帯は圏外。
JAFを呼ぶことも叶わないでしょう。
やがて、「風外洞窟」と書かれた小さな立て看板が見えてくるので、ゴールまでもう間もなくといった感じです。
ここに来るまで、本当にこの道で良いのかといった不安に駆られっぱなしでしたが、きちんと道は合っていたようでありホッと胸を撫で下ろした事は言うまでもありません。
看板に従って進むと、やがて牧歌的な風景が広がる、まさに原野というにふさわしい光景の所に出ます。
もはや、自分が「まんが日本昔ばなし」の世界にでも入り込んでしまったかのような錯覚を受けるますが、これも紛れもない令和の風景なのです。
いつも都会の雑踏の中でつまらない仕事をしていると、どうも心に余裕が無くなってギスギスしてしまうので、たまにはこういう風景に溶け込むことで心身をリフレッシュさせるのも良いのかもしれません。
鳥のさえずりと木々のざわめきだけの中を、原付のエンジン音がこだまします。
ここまで来れば、目的地まであとわずか。
農道の脇に原付を停め、ここからは歩きで行くしかないようです。
人がやっと一人通れるような、とても細い獣道の奥には自然石を削ったような石碑がぽつんと立ち、ここがかつて風外慧薫(ふうがいえくん)禅師ゆかりの地であることを、わずかに物語っています。
ここで、風外慧薫禅師を少々紹介いたしましょう。
風外慧薫禅師は江戸時代の初め頃に活躍した曹洞宗の僧侶で、水墨画の技術に秀でており、独特な世界観を持っていた達磨図や布袋尊図などで高い評価を受けています。
戦国時代の永禄11年(1568年)、現在の栃木県である上野国で生まれ、50歳を過ぎたころから小田原市国府津のこの横穴で読経と座禅三昧の日々を送りながら、空いた時間を見つけては仏画を描き、食べ物と交換しながら質素に暮らしていたそうです。
自らの死期を悟った承応3年(1654年)、なけなしの青銅三百文をはたいて穴を掘らせると、自らそこに身を投じて植木のように寂したというので、俗名を穴風外・古風外と呼ばれているといいます。
一見古そうに見えるこの石碑も、実は平成2年に建立されたものでした。
陰刻がかすれたり崩れたりはしていませんが、みうけんの読解力の低さを嘆きながら一生懸命目を凝らしてはみたものの、そのすべてを理解することはできなかったのがもどかしい限りです。
自らの教養のなさを嘆いていると、わきに小さな木箱があるのに気が付きました。
遠目に見れば小鳥の巣箱のようでもありますが、この中には親切にも風外慧薫禅師についての説明書きが入れられており、誰でも自由に持ち帰ることが出来ました。
実にありがたい事です。
田島歴史同志会の皆様、ほんとうにありがとうございます。
さっそく資料を片手に、風外慧薫禅師のゆかりの横穴を拝観する事にしましょう。
もともと、この風雅家君が住んだ横穴は田島横穴墓群という古墳時代後期の墓で、大規模な古墳築造が終焉を迎え、崖に掘った横穴に死者を祀るようになった頃のものです。
この田島横穴墓群は、現在までに32基確認されていますが、史跡として指定され保存・公開されているのは、11基となります。
まず1号墳は完全に入口が埋まってしまい、簡素な看板が立てられているだけのものでした。
その脇にあるのが2号墳で、ここからは比較的良好な状態を保っています。
3号墳。
入り口の形が少しいびつなのはご愛敬。
4号墳。
こちらが、風外慧薫が住んだとされている5号墳です。
確かに、他の横穴よりも入り口のアーチが整って美しい形状であり、風外慧薫禅師が数ある横穴の中からこの穴を選んだのも分かる気がします。
この5号墳の奥には、風外慧薫禅師が囲炉裏として使われた、と言われているくぼみがあります。
よく見ると、煤がついているようにも見えますがなにぶん400年も昔のことです。
さすがにこれは気のせいでしょうか。
この簡素な穴の中で、風外慧薫禅師は日々のほとんどを読経と絵を描くことで過ごしたのでしょうか。
写真では分かりませんが、この時はものすごい数のヤブ蚊がよって来ました。
予測して虫除けを持って行ったので刺されずに済みましたが、自然の脅威であるヤブ蚊に対し、風外慧薫のみならず昔の人たちは、どのような対策をしたのでしょう。
蚊取り線香が明治時代に発明される前はスギやヨモギをいぶした「蚊遣り火」が主流でしたが、風外慧薫も穴の中で枯葉を燃やすなどしてヤブ蚊の襲来を防いだのでしょうか。
こちらは6号墳。
入り口は少しいびつですが、中は綺麗なアーチを描いています。
この一定した綺麗なアーチの穴を掘るのに戦時中の洞窟陣地彫りでは、竹を細く切ったものを弓なりに曲げて、壁面に当てながら掘っていったそうです。
古墳時代の人たちもそのような工夫をしながら穴を掘り進めて行ったことでしょうか。
仲良く並んだ7号墳(右)と8号墳(左)。
7号墳の方には、小石が敷き詰められています。
横穴墓の床に石を敷き詰めるというのは、珍しいことではないのですが、この小石を持ち帰って体の悪いところをこするとたちまち直ってしまう、という言い伝えが昭和の初めごろまで信じられていたそうです。
このような「小石でこする」治療法というかおまじないは、ほかのお地蔵様などでもありふれた話で、そのような場所ではお礼として小石をもう一つ増やして返す、という慣しがあったところが多く、この7号墳の敷石もそうやって集まって来たものなのかもしれません。
ほとんど埋もれ、時代の波と自然の堆積物の中に消えていこうとしている9号墳。
10号墳は入り口が綺麗な状態で残っていました。
もともと横穴古墳群であった、地面にぽっかりと開いた不思議な横穴を住処として、風外慧薫禅師はひとり座禅ざんまいの日々を送りながら、ひとり何を思った事でしょう。
田島歴史同志会の代表である野地 芳男さんによる、
静かさや 青葉の蔭の 禅師洞
という俳句が印象的でした。
いま、小田原駅の喧騒から離れた静かなる国府津の地の、さらに人里から離れた幽玄の静寂の中で、ただセミの声だけがこだまする横穴墓の群像の前にたたずむとき、かつてこの岩穴の中に炊事の火を焚き、仏画を描き座禅ざんまいで生涯を過ごした風外慧薫禅師の清貧な暮らしぶりが聞こえてくるようで、このような山深くにも悠久の歴史を残す小田原の地の奥深さを思い知るのです。