三浦半島の付け根である横須賀の夏島の街は、近隣に日産自動車や岡村製作所の工場を控えた工業地帯であるが、少し内陸に入れば山々の谷あいに閑静な住宅街が広がっており、その一角に静かにたたずむのが金剛山正禅寺である。
開山は天文2年(1533年)に亡くなった暘谷乾幢(ようこくけんとう)とされ、暘谷乾幢は鎌倉建長寺の第169世、鎌倉報国寺の第13世をも務めた人物でその創建も古く由緒は正しい。
この寺の裏には権現山という小高い丘があり、そこに祀られた神明社は寛文12年(1762年)に創建されたと伝えられる。
この地域をもともと鉈切というが、この鉈切部落の鎮守として、もと寺前の小さな丘にあり、海で働く人たちから航海安全、大漁祈願の神様として信仰されてきたが開発の波に抗えず、この小山に移転してきた歴史を持っているのである。
もともと、この寺の近くにあった谷戸には18基の横穴があったとされている。
これはもともと古墳時代の横穴古墳で、戦時中に崩されて数基を残していたが岡村製作所の工場の建設に伴いすべて破壊されたとされており、現在は工場の敷地内に記念碑のみを残すそうであるが敷地内のため立ち入って見学する事も許されず、実に惜しい事をしたものである。
というのも、この横穴はただの横穴古墳ではない。
古くから、蒲冠者範頼(かばのかんじゃのりより)ゆかりの霊穴として語り継がれていた横穴なのである。
蒲冠者範頼は、正式名を源範頼といい、鎌倉幕府を創設した源頼朝の異母弟とされている。現在の静岡県浜松市にあたる遠江国蒲御厨で生まれ育ったために蒲冠者(かばのかじゃ)、蒲殿(かばどの)と呼ばれ、藤原範季に養育されたためにその一字を取って「範頼」と名乗った。
数々の戦役において源氏一門として戦い、鎌倉幕府において重きをなすものの、不幸な事に頼朝に謀反の疑いをかけられて流罪となった悲運の武将なのである。
建久4年(1193年)のこと、範頼は兄であった源頼朝に反逆の疑いをかけられて伊豆の修善寺に幽閉されていたが、なんとか兄の誤解を解こうとした範頼は、ひそかに修善寺を逃れて榎戸(今の深浦湾あたり)の港に上陸した。
付近に住む漁師の平兵衛は、みすぼらしい落ち武者であった範頼とその一行をあわれに思い、一行をこの横穴に案内して匿うと、何かと世話を焼いていたのであるが、この事が鎌倉の間者に知られるところとなり、ついに刺客が差し向けられたのである。
平兵衛は力の限りこれに立ち向かい、鉈をふるって戦いながら、我が身に変えてと範頼を逃れさせた。
しかし、次第に追い詰められた範頼はもはやここまでと悟り、金沢区室の木(現在は金沢区片吹に移転)の大寧寺まで逃れると、主従ともどもそこで壮絶な自刃をして果てたという。
いま、この近辺に残る鉈切の地名もこれが由来とされているが、鉈切地区のほとんどが蒲谷の姓を名乗るのは平兵衛が蒲冠者の「蒲」の名を使う事を許され、これに横穴墳墓の事である「谷倉」(やぐら)の「谷」の字を合わせたものだと伝えられている。
昭和3年ごろ、鉈切部落の340戸の民家のうち蒲谷姓は300戸にも上ったが、昭和20年の終戦まで続いた度重なる建物疎開で正禅寺と民家7軒を残して離散したことはまことに残念である。
いま、晩秋の風も涼しげな正禅寺の墓地をひとり歩いてみると、やはりその墓石の多くは蒲谷姓であることに気づかされる。
その中には、日本軍の兵士として勇敢に戦い、戦場に散っていった英霊のものと思しき墓石も多く残されており、その多くは応召されたものでもあろうが、ここにもかつて勇敢に戦った平兵衛の遺伝子が受け継がれているかのような錯覚を覚えさせられるのである。
いま、小高い丘の上に立ち、小さな石祠と同じ目線で鉈切の街を見下ろせば、かつてここに広がっていた平和な農村も、広がる海原に浮かぶ小船の姿も見る事はできず、海が見えなくなった場所に鎮座される航海安全の神様の心中たるや推して知るべしであろう。
いま、ゆかりの横穴も往時の風情もすっかり失われた令和の時代、海風の潮の香りは工場の油のにおいとなり、とんびの声は車のクラクションに変わって久しいが、かつてここにも壮絶な時代を生き抜いては無念の刃に散った男たちの息吹が今なお伝えられ、その痕跡を眺めては時の移り変わりに一抹の無常を感じずにはおれないのである。