三浦半島の数少ないランドマーク、引橋の交差点と三浦海岸を結んでいる国道134号線の途中に「半次」というバス停がある。
このバス停のすぐ前の交差点の角に、電信柱に隠れるようにしてひっそりと建っている墓石が見えるが、これは江戸時代の力士であり、錦島部屋の親方であった錦島三太夫の墓であると言われている。
この台座の下には「北 浦賀道、西 鎌倉道、南 三崎道」とあり道しるべの役割も果たしていたようである。
また、墓の側面には享和元年(1801年)4月の行司筆頭であった式守長五郎や、三浦、藤沢、鎌倉などの相撲関係者や門弟衆など20余名の名がずらりと彫り込まれており、この墓に携わった人の多さを物語っているのである。
錦島はもとは石ヶ浜という四股名で、年寄となってから錦島三太夫を襲名したが、のちに錦島三太夫が病死すると、その恩義ある師に報いようと関係者がこぞって名をあげて追善供養を、ということでこの墓が建立されたのであるという。
その後、鍋島親方の追善相撲の興行が村社の若宮神社の祭礼とともに催されて奉納され、地元では「例祭9月19日に神事相撲あり 境内に市たちならび、すこぶるにぎわう」と三浦郡志に記している。
これは三浦半島における相撲流行の先駆けであり、そこから派生して下宮田の若宮神社、葉山の森戸神社、長坂の祖母神社、追浜の雷神社などで神事相撲が奉納されるようになったのだという。
錦島部屋は昭和中期に時津風部屋へと合流して消滅したが、錦島三太夫のいた時代から200年たった今でも若宮神社では例大祭の際には相撲が奉納され、現代でも子供が土俵の上で技を競い、その勝敗が決するたびに大きなどよめきが聞こえてくるのである。
いま、交通量も多くほこりの立つ国道の路傍で、電信柱に隠れてひっそりと建つ小さな墓標の前で手を合わせるとき、このような目立たないところにも三浦半島の歴史の1幕を垣間見ることができ、また今でも聞こえてくる子供相撲のどよめきを、錦島三太夫も微笑みながら聞いてくれているだろうかと思うのである。