夏の風と日差しが気持ち良いこの時季、三浦半島へやってきました。
三浦半島はみうけんにとっては定番のツーリングスポットで、どこに立ち寄っても素晴らしい風景と歴史を堪能することができるので、心からお気に入りな場所です。
さて、最近まで有料だった城ヶ島大橋も無料開放されたし、と言うことで三浦市の先端にある城ヶ島へとやってきました。
今ではすっかり観光地となっていますが、帝都東京をまもる要の地である、として明治32年(1899年)に三浦半島は全域が東京湾要塞に指定されました。
「要塞地帯法」という法律のもと、「許可ナク要塞地内ノ測量航空、撮影模写、模造、録取ヲ禁ス。 ─陸軍省─」という立て看板が城ヶ島の要所に立てられ、開発も厳しく制限されました。
これが、現在にも三浦半島に豊かな自然を残す結果ともなったのですが、当時は観光で訪れるような雰囲気ではなかったのでしょう。
さて、今回は城ヶ島公園へとやってきました。
もちろん、この城ヶ島公園は当時の「砲台」や「地下壕」が数多く造られたところです。
今ではその痕跡はあまり見られませんが、駐車場などにかろうじて残っている円形の造作が砲台の跡であると言うことです。
考えてみれば、この城ヶ島はもともと戦乱の地でもありました。
かつての戦の様子は、明治時代に城ヶ島で医師を営み、初代の三崎町町長ともなった加藤泰次郎氏が編纂した「城ヶ嶋村沿革畧誌」に詳しく記載されています。
それによれば、室町時代であった天文21年(1552年)3月、対岸の安房国(現千葉県南部)を治めていた里見義弘が兵船80艘を引き連れて城ヶ島を攻め取ろうとやってきました。
この頃城ヶ島を支配していたのは北条氏であったのですが、三崎城の将であった梶原備前守や富永三郎左ェ門以下がよく防戦したために、里見氏は安房国へと退いたと言うことです。
しかし、4年後の弘治2年(1556年)に里見義弘はふたたび兵を城ヶ島に出し、島を守る北条氏康の軍勢と激しい合戦になりました。
この戦については、「城ヶ嶋村沿革畧誌」によれば、詳しい戦場の位置は詳らかではないものの、城ヶ島の東部の平原に土塁が二つあり、里人たちはそれを「一番堀」「二番堀」と呼んでいた、と記載されています。
いっぽう、城ヶ島公園入口のあたりの字を「一番森」といいますから、「堀」が「森」に転じたことが容易に想像できます。
今となってはすっかり削平されて公園の敷地になったところに、「二番森」があったのかもしれません。
時代は流れ、この城ヶ島は砲台の島となりました。
その痕跡はわずかにしか残されていませんが、公園の駐車場にある円型の花壇の周囲には極めて堅固に石積みがなされ、何かのレールのような跡も見られます。
また、駐車場以外にも、公園の至る所に造られた円形の石積みは、どれも東京湾へと襲いかかる敵艦船を待ち構える大砲があった場所であるとされています。
しかし、結局はこの大砲たちは、実戦で一度も砲火を吹く事はないまま戦争は終わりを告げたのだそうです。
いま、波風静かで人も少ない平日の城ヶ島公園から海を眺めるとき、かつてここが戦場となり、古くは房総から舟が攻め寄せ、近代には来るべき戦に備えて砲兵たちが水平線を標的に演習を繰り広げたことを思い出すとき、現代の穏やかな平和な日々がとても貴重で大切なものであることを改めて噛み締めたのです。
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