三浦半島の中でも中心位置に近い横須賀市の木古庭の里は、あまり開発もされておらずのどかな農村風景と原生林が広がる風光明媚な所であり、少しでも街道をそれれば昔ながらの風景が広がって青々とした緑を一面に見せてくれる。
その木古庭の里の、表通りから少し入った山すその中には道端に並ぶ「南無不動明王」の幟旗がはためくのを見ることが出来るが、その奥から静かに聞こえてくる清流の音と水しぶきが晩夏の日照りを抑えてくれるのか、木立の中により一層の涼しさを演出しているのである。
木々に囲まれ隠れるかのようにして流れるこの滝は、地元では古くから不動の滝と呼ばれて生活や農業のための水のみならず、信仰の対象としても人々の生活の中に息づいてきた。
その流れはどこまでも清く、夏でも水は冷たく、その霊泉を囲む草いきれはまさに深山の幽谷にいるかのような趣きである。
この滝の歴史は古く、「新編相模風土記稿」木古庭の欄によれば、時代はさかのぼって元禄のころ、この辺り一帯の水田を潤していたこの滝の水が枯れてしまったことがあった。
そのため付近の農民は大いに困窮し、日々の生活もままならない状況が続いていた。
宝永4年(1707年)のころ、困り果てた村人を見るに見かねた本円寺の住職、日進上人が陀羅尼品千巻を読誦して祈祷を続けたところ、突如として山裾から大量の清水が噴き出して再び滝の流れは戻り、周囲の村人をあまねく助けたのだという。
それ以降は不動の滝には石像の不動尊が祀られて、まるでこの滝に邪なる何かが近寄らぬように宝剣と羂索を携えては睨みを利かせているかのようである。
それからというものの、村人は毎月27日の夜になると不動堂に集まり、南無妙法蓮華経のお題目を唱える題目講が続けられており、現在でも七日講と呼ばれて絶えることなく続けられているという事である。
この滝から少し入ったところにある小さな不動堂は正式には瀧谷山瀧不動堂といい、その創建年代は明らかではない。
ただ、堂内の天井裏にはいまだに万治3年(1660年)再建の棟札が残されており、その歴史の古さを物語っているのだろう。
この不動堂は普段は扉もかたく閉ざされて中の様子をうかがい知ることはできないものの、本尊不動明王は畠山重忠が三浦一族の衣笠城の攻略戦に臨んで畠山山頂に布陣した時に戦勝を祈願したという伝説も残され、重忠の身代わり不動として信仰されたという話も残されている。
現在の本堂は昭和7年に再建されたもので、それだけでも太平洋戦争が始まるずっと前のことであるから、その歴史に深さに今更ながらに驚かされるのである。
境内や周囲の山並みにはイチョウやタブノキ、ツバキやヤブモミジなどが鬱蒼として生い茂り、これは三浦半島の典型的な植物相を如実に表しているとされて葉山町の天然記念物に指定されており、その中にたたずむ古い不動尊像は創立年こそ定かではないものの、今なお苔むして摩滅し、そのお顔も定かではない中で、ただひたすらに一途にこの木古庭を見守っている。
かつて江戸時代はこの不動堂が木古庭の鎮守であったとされているが、明治政府の国家権力により杉山神社に合祀されていた神明社がこの地に来てからは神明社が木古庭の鎮守として人々の営みを見守り続けているのである。
いま、再び滝の元に降りては不動尊に一礼して滝の水の冷たさを指先に感じる時、どこからか聞こえる蝉時雨と遠くの貨物船の汽笛が山々を木霊して、昔からあるものと新しくあるものがゆっくりと調和していくさまをあらわしているようで、ここにも時の流れの悠久さをしみじみと感じるのである。