京浜急行の終着駅である三崎口駅から1,5キロほど北西に進んだ海沿いのあたりは古来から矢作(やはぎ)と呼ばれた里であるが、この矢作の里にある円徳寺の脇に、赤辺稲荷と呼ばれている小ぢんまりとした稲荷さまが祀られているのが見て取れる。
今となっては訪れる人もまばらな静かな祠ではあるが、この辺りはもともと好漁場であり、カツオやブリなどがたくさん捕れたので村々は潤い、特にこの赤辺稲荷は漁の神様としてあがめられたばかりでなく、性病を癒す神様としても霊験あらたかであったとされており、常日頃から参詣人が絶えることはなかったという。
特に5月、9月の21日に執り行われていた例大祭には各地から漁船が集まり、参道は茶店や露店がひしめき合って、そのにぎやかな事と言ったら三浦半島屈指のものとまで評されたほどであるという。
ある日、矢作の漁師たちがイワシを捕まえるべく網を仕掛けようと出かけて行ったところ運悪く大しけに遭い、心配した家族たちは夜を徹して赤辺稲荷に漁師たちの無事を祈り続けた。
すると、しけはみるみるうちにおさまって漁師全員無事に帰ってくることが出来たので、家族はみな涙を流し抱き合って喜び、ますます赤辺稲荷は信仰を集めたという事である。
こうして赤辺稲荷は霊験あらたかなるとして多くの里人から崇敬されたものの、日露戦争の頃ご神体が消え失せてしまった。村人たちは大いに嘆き悲しみ、中には「神様は出征されていった」とまで噂されたが、結局ご神体の行方はようとして知れず、追い打ちをかけるようにして国策のもと大正7年に白旗神社に合祀され、神殿は無残にも取り壊されて更地になってしまったのである。
しかし、村人たちの一途な信仰心は簡単に消え去ることはなく、戦争が終わるとたちまち再建され、いまの真っ赤で立派なお社を構えるまでになったのである。
もともと、この赤辺稲荷は赤辺、黒辺、白辺の3体が兄弟として祀られたものであったという。
赤辺稲荷は収穫したままの米をさし、今紹介したとおりである。
黒辺稲荷は「くろめ」、つまり玄米のことであり、入江湾の黒崎に祀られていたものが、現在は実相寺の境内に移されているという。
白辺稲荷は「しろめ」、つまり精白した米のことであり、今なお三浦市役所の裏の坂に祀られているという。現代では三崎城跡の脇にあたるという事で城辺の文字もあてられているが、本来は白辺が正しかったようである。
これらは言うまでもなく米の事をさし、稲荷がもともと田畑の神であったことを如実に物語っているのである。
また、このあたりの矢作(やはぎ)という地名は、三浦大介義明の孫にあたる和田義盛がこの地を治めていたころ、この地で弓矢を作っていたことから矢作という地名が付いたのだという。
今では川名、加藤、大井、角田の姓を名乗る各家の祖先が矢作りに従事していたという。今でも矢を格納した矢倉穴と呼ばれる穴は残り、この辺りに生える篠竹は当時の矢を作る竹の名残であるといわれている。
この穴はのちに日蓮宗の僧侶が修行したことから現在では矢倉としてよりも妙法窟として残され、今なお大切に守られているのである。
いま、この赤辺稲荷の前に立ち手を合わせる時、その優しげな稲荷大明神が海で遊ぶ子供たちを優しく見守っているようで、農耕の神、米の神でありながら海に生きる人々をも守ってきた広い心を想い、感慨もひとしおである。