JR二宮駅前から延びる県道71号線を北上し、途中からは脇道となる旧道をさらに北上していくと、「水を飲みに出た竜」で有名な米倉寺を過ぎたところに、明るく開かれた森林に抱かれた風光明媚な湿性公園がある。
道から石段を下って行くと、その先には真っ直ぐに伸びる桟橋のような参道が続き、その果てには真紅の鳥居と鬱蒼とした木々に守られた弁財天の社が建っている。
周囲の施設は真新しいのに、この石段だけはずっと昔からここにあるような古そうな石段で、ひそかにこの弁天様の歴史の深さを物語っているかのようである。
この厳島湿生公園は、清水が出ている湿生地を復元し、保全することを目的に整備された稀有な公園である。
このような湿性公園の中心に池があることは珍しくないが、こうして市民があまねく集う公園の中心として弁財天が祀られている例はなかなか珍しいと言えるのではないか。
園内中心の弁天社は祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)と、倉稲魂命(うがたまのみこと)であり、明治時代に厳島神社と改名されてからも、地域の住民からは江戸時代に親しまれていた「弁天さん」という名のままで広く親しまれている。
また、その他にも木道の遊歩道をめぐる形で東屋やトイレなどが整備され、実に風光明媚で静かな、居心地の良い公園である。
この厳島神社には、その由緒正しさを物語る民話が残されており、それによれば二宮町の吾妻神社の祭神の話にもつながってくるのだという。
吾妻神社の御祭神は弟橘媛(おとたちばなひめ)であり、ご神体は「櫛」であるとされており、この弟橘媛の櫛に関しての伝説は三浦半島にも多く残されている。
この「櫛」は、今から2000年近くも昔、西暦110年ごろに景行天皇の皇子である日本武尊の船が相模灘で暴風雨にあい、いまにも沈没しそうになった事があった。
その時、この船を沈めるなら自らが身代わりに、と海中に身を投じたのが弟橘媛で、その持ち物であった櫛が旧山西村梅沢の漁師の網にかかったものだ、という言い伝えがある。
その後、この漁師を統率する網元の夢枕に、「先日、網でひきあげた鏡が、今では葛川の上流にある、泉のほとりの神社に安置されているので信仰するように」とのお告げがあった。
網元はさっそく葛川の流れる一帯を探し回り、ようやく厳島神社の御神体のことであることが分かったのである。
それからというもの、網元は神主に事情を話して氏子の仲間入りをすると、ありったけの浄財を寄附して鳥居や賽銭箱を奉納するなど、実に熱心に信心していたということである。
それから、網元のもとでは鰤の大漁が続き、たいへん喜んだ網元は、厳島神社にたくさんの海の幸も供えるようになった。
そんなある日、着任したばかりの若い神主が、ここまで御利益があるご神体とはどんなご神体なのだろうと興味をもち、決して開けてはならないと言われていた宝物殿の観音扉へ手をかけるということがあった。
観音扉を開くと、中には金箔の輝きまばゆい立派な弁財天の座像が穏やかに微笑んでいたが、その穏やかな眼差しの奥に隠された激しい憤りを感じとり、神域を汚した罪の意識から恐れおののき、転がるようにして家に逃げ帰ってしまった。
それから若い神主は寝込むようになった。
耐え難い胸の痛みが全身に広がり、ただ苦しみもがく日々に医者もさじを投げ、思い悩んだ家族が「これは、ご神体を汚した神罰ではないか」と思うようになり、試しに祝詞を何度も何度もくり返して奏上していくや、痛みは次第に治まっていったのだという。
この、櫛・鏡・弁財天を話の中心に据えた民話は、当時の日本人にとって、いかに神社信仰というものが重要であったかを物語っているのであろう。
いま、この水生公園の木道の上から沼の中を覗き込むと、カエルやドジョウが水の中に土煙をあげ、カワニナが足跡を残し、サギが餌をさがす平和な公園である。
初夏にはホタルの名所として多くの人が集うこの公園も、かつては弁財天信仰の聖地として多くの信者でにぎわったことがにわかに思い出されてくるのである。