みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

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弟橘媛 の検索結果:

厳島弁天に伝わる 神徳を得た漁師の伝説(中井町)

…。 この吾妻神社は「弟橘媛」(おとたちばなひめ)をご祭神とし、ご神体には「櫛」を祀っています。 この櫛は、景行天皇の皇子であった日本武尊の船が相模灘で暴風雨にあって沈みかけた時に、弟橘媛が日本武尊の身代わりにと身を投げて救った時の持ち物とされています。 この伝説は横須賀の走水神社にも伝わっており、当ブログでも過去に何度も紹介させて頂きました。 この地域では、この櫛は旧山西村(現在の二宮町山西)の漁師の網にかかったものと言い伝えられています。 それからしばらくして、この漁師の網…

ブイか機雷か 神社に奉納された謎の鉄球(横浜市磯子区)

JR磯子駅のあたりから横須賀街道を北上すると、掘割川にかかる八幡橋の手前で二手に分かれます。 そのまま左折して横須賀街道を北上すると地下鉄吉野町の駅へ、また直進して八幡橋を渡ると根岸方面です。 この八幡橋のたもとにある八幡橋八幡神社は「やはたばしはちまんじんじゃ」といって、欽明天皇12年(551年)には既にこの地に祀られていたという歴史の古い神社です。 時代は下り江戸時代の明和3年(1766年)には八幡宮、三島明神、氷川明神が合祀され、さらに10年後の安永5年(1776年)に…

平和な湿性公園に隠された 厳島弁財天秘話(中井町)

… 吾妻神社の御祭神は弟橘媛(おとたちばなひめ)であり、ご神体は「櫛」であるとされており、この弟橘媛の櫛に関しての伝説は三浦半島にも多く残されている。 この「櫛」は、今から2000年近くも昔、西暦110年ごろに景行天皇の皇子である日本武尊の船が相模灘で暴風雨にあい、いまにも沈没しそうになった事があった。 その時、この船を沈めるなら自らが身代わりに、と海中に身を投じたのが弟橘媛で、その持ち物であった櫛が旧山西村梅沢の漁師の網にかかったものだ、という言い伝えがある。 その後、この漁…

人々の信仰を集めた 亀崎半島の観音寺の栄枯盛衰(横須賀市)

…ケル)とその妃である弟橘媛姫(オトタチバナヒメ)の伝説があり、荒れ狂う海を鎮めんとしてこの洞窟から海に身を投げた弟橘媛姫を十一面観世音菩薩として像に刻み、海上安全と人命守護の霊験あらたかとして大いに信仰を集めたのだという。 しかし、時は下って建保の乱(和田義盛の乱)が建保元年(1213年)に勃発すると、この観音像はどこかに持ち去られてしまい、行方知れずとなって長らく観音堂は観音様が不在であったという。 寛元2年(1244年)の夏に、走水沖で海底が煌々と光っているのが確認され、…

崖に穿たれた小さなお社 亀崎神社(横須賀市)

…き、同行していた后の弟橘媛命(オトタチバナヒメノミコト)が、「これは海神の怒りである」として日本武尊の身代わりとなるべく決意され、荒れ狂う海中に身を躍らせた。 地元の伝説では、この時の弟橘媛命のカメノヲ(遺骨)がこの地に流れ着いたから祀ったという話があり、また別の言い伝えでは地元の漁師の網にかかった権現様を祀ったという話も言い伝えられている。 どちらの由来にしても興味深いものであるが、その伝説の信憑性はさておき、通りを歩く人もまばらな夕暮れ時に、この小さな神社の脇に並ぶ2体の…

走水神社に伝わる日本武尊と弟橘媛命の伝説(横須賀市)

…き、同行していた后の弟橘媛命(オトタチバナヒメノミコト)が、「これは海神の怒りである」として日本武尊の身代わりとなるべく決意され、 さねさしの 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも と歌を詠み、荒れ狂う海中に身を躍らせたのである。 この時、日本武尊は「ああ、吾が妻よ」と叫んだので、これ以降東国を吾妻と呼ぶようになったのだという。 以降、日本武尊は走水神社に祀られ、その一方で弟橘媛命は愛用していた櫛が流れ着いたという御所ヶ崎に橘神社という神社を建てて祀られたが、…

観音崎の名の由来となった 観音寺の記憶をたどる(横須賀市)

…ケル)とその妃である弟橘媛姫(オトタチバナヒメ)の伝説があり、荒れ狂う海を鎮めんとしてこの洞窟から海に身を投げた弟橘媛姫を十一面観世音菩薩として像に刻み、海上安全と人命守護の霊験あらたかとして大いに信仰を集めたのだという。 時代は江戸時代まで下ると、十一面観世音菩薩を本尊とする観音堂などの堂宇も建立されるようになり、佛嵜山 観音寺という寺院となり、人々からは船守観音と親しまれて海上安全を願う漁師や海運業者から多くの信仰を集めて連日参拝する人も絶えず、最盛期には目の前の磯を削平…

 

 

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