みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのJog・CE50。時速30キロで見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。

観音崎の名の由来となった観音寺の記憶をたどる(横須賀市)

戦時中は東京湾要塞といい、東京湾と帝都東京を防衛する要として要塞地帯となった三浦半島観音崎も、現在となっては風光明媚な風景を楽しめる遊歩道が整備された公園となり、平日だというにもかかわらず多くの人が散策を楽しむ平和なところである。


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その遊歩道を歩いて行くと、山側の崖には大きな洞窟があり、崖崩れの懸念からか近づく事も禁じられているが、この洞窟は観音崎公園の名所の一つともなっている。


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伝説によると、この洞窟にはかつて大きな大蛇が住んでいた。

この大蛇がまた乱暴もので、ときどき現れて暴れては漁民や里人を大いに困らせていたのだという。

 

天平13年(741年)、諸国を巡る廻国修行を続けていた高僧の行基は、この地にすむ大蛇の事を里人から聞かされて大いに同情し、さっそく洞窟へと出向いて大蛇を法力で説き伏せて調伏するや、その霊を鵜羽山権現として祀り、今後は村の守り神となるよう諭したのだという。

 

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また、近くの走水神社には日本武尊ヤマトタケル)とその妃である弟橘媛姫(オトタチバナヒメ)の伝説があり、荒れ狂う海を鎮めんとしてこの洞窟から海に身を投げた弟橘媛姫を十一面観世音菩薩として像に刻み、海上安全と人命守護の霊験あらたかとして大いに信仰を集めたのだという。


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時代は江戸時代まで下ると、十一面観世音菩薩を本尊とする観音堂などの堂宇も建立されるようになり、佛嵜山 観音寺という寺院となり、人々からは船守観音と親しまれて海上安全を願う漁師や海運業者から多くの信仰を集めて連日参拝する人も絶えず、最盛期には目の前の磯を削平し、お茶屋まで作られる繁盛ぶりだったという。

 

現在でも、この洞窟の前の磯に規則正しく丸い穴が並ぶのを見る事が出来るが、これこそが参拝客が連日宴会を催した「お茶屋」と呼ばれた料理屋の跡であり、岩を穿った柱の穴のみならず、階段までこしらえては水を入れ、魚を泳がせていたイケスの跡まで残されているのが見てとれるのである。

 

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しかし、時は流れて明治となり、徳川幕府から明治政府の世となると、近代的な軍隊の創設を急いでいた明治政府は帝都東京の防衛の要として観音崎を選び、この地を砲台を中心とした要塞地帯へと作り変えることとなったのである。

 

明治13年(1880年)、この観音寺は陸軍の命に従って鴨居地区の亀崎半島へ移転した。

 

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移転した当初こそはそれなりに繁栄もし、三浦三十三観音霊場の札所にもなっていたが、昭和61年(1986年)に堂宇が火災により焼失するや、今のような小さなお堂に立て替えられ、その狭い内陣に十一面観世音菩薩像がつつましく祀られているのである。


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いま、この観音崎から亀崎半島へと移転した観音寺はすっかり廃れてしまい、その堂宇は小さく、訪れる人もまばらで、かつての賑わいなど想像すべくもないが、今でも観音寺があった観音崎の洞窟の近くには無縁となった江戸時代の墓が淋しく立ち並び、往時を今に偲ばせているのである。

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いま、かつての観音寺の繁栄を見ながら、今となっては一本の香も手向けられぬこの小さな墓石の前に立ち、お茶屋が建てられていた磯の方をはるかに眺める時、海上の航海に安全あれと願った漁民や船主たちの、また彼らの帰りを一心に願う家族たちの姿と、夜になっても提灯を燈したお茶屋の賑わいがよみがえって来るかのような錯覚に襲われるのである。