名勝観音崎に程近く、東京湾から遠く房総を眺める走水の地は風光明媚なところで、古くは古事記や日本書記にもその名を表す、文字通り日本で最も古い地名の一つである。
その走水の鎮守として人々の崇敬を集めているのが、その名も走水神社であり、創建はいつだか分かってはいないものの、その創建は「古事記」や「日本書紀」に紹介されている。
それによると、第十二代天皇である景行天皇の皇子であった日本武尊(ヤマトタケル)が勅命により上総の国に渡航するべく、走水の地に到着された。
しかし、海上は風雨が強く船を出せる状況ではなかったために仕方なく数日間滞在された。いま、この滞在されたところは「御所崎」と呼ばれ、背後の山に旗を立てたことから「旗立山」と呼ばれている。
この時に数多くの里人が日本武尊を慕って訪れたので、日本武尊は冠を里人に賜った。のちにこの冠を埋めたのが走水神社であるとされている。
しかし、幾日待っても風波は一向におさまる気配は無い。日本武尊は困り果てたものの、これ以上日を延ばすことはならぬと船出を決意されたが、これが仇となり難破してしまったのである。
このとき、同行していた后の弟橘媛命(オトタチバナヒメノミコト)が、「これは海神の怒りである」として日本武尊の身代わりとなるべく決意され、
さねさしの 相模の小野に 燃ゆる火の
火中に立ちて 問ひし君はも
と歌を詠み、荒れ狂う海中に身を躍らせたのである。
この時、日本武尊は「ああ、吾が妻よ」と叫んだので、これ以降東国を吾妻と呼ぶようになったのだという。
以降、日本武尊は走水神社に祀られ、その一方で弟橘媛命は愛用していた櫛が流れ着いたという御所ヶ崎に橘神社という神社を建てて祀られたが、明治時代に日本軍の砲台用地として接収されたので、この走水神社に夫婦ともども合資されることとなったのである。
以来、この走水神社は航海の安全と大漁祈願にご利益ありとして多くの人の崇敬を集め、境内には船の舵に弟橘媛命の浮き彫りを貼り付けた碑が奉納されている。
また、神社の本殿の裏手には、多くの場合いたずらをして懲らしめられる役回りの河童が、泳ぎの達人であるとして大漁と人名救助の手助けをする水神として祀られているのも興味深いものである。
また、「三浦古尋録」によれば日本武尊がこの地に数日滞在された折、地元の漁師がハマグリの刺身を献上したところ日本武尊は大いに感激し、この漁師に大伴黒主(オオトモノクロヌシ)という名を与え、これにあやかって包丁への感謝と山海の鳥獣魚介の霊を慰めるべく包丁塚が建立され、今なお四月上旬の供養祭には多くの包丁が奉納されるということである。
このように、古くから海に縁が深く、航海安全と海上守護の神として多くの人々からの信仰を一心に集めてきた走水神社であるが、その境内には船を撃破沈没させるための機雷が明治時代にロシア軍から鹵獲され、奉納されているのも面白いものである。
このように、海上の任に当たる人々、またその家族から数知れぬほどの信仰を受け、今なお参拝する人の耐えない走水神社であるが、そのいきさつや奉納された品々は時代や思想に違いこそあれ、この地で海とともに生きてきた人たちの切実で一途な信仰心を今に伝えているのである。